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金枝城(栃木県さくら市) [古城めぐり(栃木)]

DSC06315.JPG←朝日の中の主郭塁壁
 金枝城は、那須氏の庶流金枝氏の居城である。那須氏は下野北部の名族で、源平合戦屋島の戦いで活躍した那須与一宗隆が有名である。那須氏には兄弟一族が多く(宗隆はなんと十一男!)、下野北部に多くの支族を輩出した。金枝氏もそんな一族のうちの一家で、那須資藤の四男隆経が南北朝期に金枝の地に分封されて、金枝城を築き、金枝備中守を名乗ったと伝わる。その後、室町時代に那須資氏の四男氏福が金枝氏に養子に入った。時代は下って、戦国時代真っ只中の1549年、宿敵宇都宮氏と激しい戦闘の行われた五月女坂合戦では金枝近江守義隆が参陣しており、その後の戦いにも那須氏に従って戦った。1590年に那須氏が豊臣秀吉に改易されると、金枝氏もこの地を去り、後に近世大名として存続した黒羽城主大関氏の家来となって、重臣の一人となったと言う。

 金枝城は、比高30m程の丘陵上に築かれた城で、山城と言うよりは平山城と言った方がふさわしい地勢である。那須氏にはこうした低山に築いた山城が多い。遺構はほぼ完存しており、主郭周囲の空堀など見事である。特に主郭の南東側斜面には、横堀や土塁を複雑に組み合わせ屈曲させて、虎口を形成したりしているようである。しかし如何せんこの城は全体に薮がひどく、また竹の倒木も甚だしくて、冬場でも遺構の確認が極めて困難である。主郭の中など、入っていく気もしないほどだ。一方、城のかなり東側、畑の向こう側にも堀跡のような切通し道があったり、腰郭らしい平坦地があったりして、往時はかなり広い城であった可能性がある。堀を多用した複雑な縄張を持つ城の様であるが、折角の遺構が薮で台無しになっている、惜しい城である。やはり栃木の里山は荒れている。
主郭周囲の空堀→DSC06263.JPG
DSC06303.JPG←折角の遺構がこんなで残念!

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.740621/140.043014/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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