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大築城(埼玉県ときがわ町) [古城めぐり(埼玉)]

DSC08665.JPG←空堀の巨大な塁壁
 大築城は、小田原北条氏傘下の松山城主上田能登守朝直が天正年間(1573~92年)に築いたと言われる山城である。伝承によれば、北条氏は朝直に一山七十五坊を有した関東屈指の大寺院慈光寺を攻撃させた。この攻略戦に当たって築いたのが、大築城であると伝えられている。なぜ寺院を戦国大名が「攻撃」したかと言うと、中世戦国時代の寺社勢力と言うのは、その地域に大きな権益を有し、多数の僧兵を擁して武装した、ほとんど戦国大名に匹敵する武装勢力だったからである。信長が比叡山を焼き討ちにしたのも、石山合戦で本願寺と戦ったのも、基本的には同じことである。また一方、寺社勢力とは対立するだけではなくて、自陣営に取り込もうとすることもあった。それほど重要な地域勢力だったのである。その後の大築城の歴史は不明であるが、慈光寺を攻め落とした後は、既に用済みの城となったのかもしれない。

 大築城は、日本城郭大系に載っている縄張図が小さかった為、イメージ的にも大した城ではないと思い込んでいたのだが、実際に訪れてみてその巨大さに正直驚いた。大築城が築かれた城山は比企地方ではかなり山奥で、南東麓の麦原集落からでも比高226mもある山中の城である。しかし、そんな奥地に築かれた大築城は、山城としては異例なぐらい各曲輪が大きく、分断する空堀に至っては幅15m以上、最大高低差10m以上という巨大なものである。北条氏は動員兵力が大き過ぎた為か、巨大な平山城(滝山城、松山城、鉢形城など)を重点的に整備していたので、本格的に山城を構築した例は稀であるが、大築城は八王子城太鼓曲輪と並んで、北条氏が本気で山城を築くとどういう規模のものになるか知らしめるものであろう。しかし縄張はわりと単純で、曲輪は東西に一直線に並べられ、空堀も一直線で横矢は掛かっていない。それでも三ノ郭虎口には馬出しが設けられ、動線を90度屈曲させるなど、要所には技巧を凝らしている。二ノ郭虎口は坂虎口、主郭は内枡形になっているようだ。このあたりの虎口構造は、鹿沼の諏訪山城とよく似た形状に思われる。諏訪山城も北条氏の息のかかった城と考えられる。最高所の主郭はもっとも広く、西端には搦め手虎口があったようだ。一方、本城から50mほど南に下った尾根上には、モロドノ郭と呼ばれる出曲輪があり城の南側の防御を固めている。

 それにしても、こんな山上では異例且つ予想外に大きい山城で、見事と言うほかはない。ただ、北条氏の城にしては横矢が掛かっていないところを見ると、やはり陣城としての簡素な構造であったものと考えられる。
二ノ郭虎口→DSC08680.JPG
DSC08744.JPG←上田朝直が焼き討ちした慈光寺

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.974446/139.231120/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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