SSブログ

将門首塚(東京都千代田区) [その他の史跡巡り]

DSC13032.JPG
 将門首塚は、天慶の乱で関東に独立政権を作ろうとして果たせなかった平将門の首塚と言われている。平将門は桓武平氏の出で、桓武天皇5代の皇胤に当たり、平氏の姓を授けられて臣籍降下した高望王の三男、鎮守府将軍平良将の長子である。将門記に拠れば、常陸国府から追われていた藤原玄明から庇護を求められ、匿ったことから国府との間で戦闘となり、これを攻め落としてしまった。不本意ながらも朝廷に対して反旗を翻すかたちとなった将門は、そのまま坂東八ヶ国を席巻し、「新皇」を称したと言う。慌てた朝廷は将門の従兄弟の平貞盛と俵藤太(藤原秀郷)に討伐を命じ、遂に将門を討ち取った。将門の首級は京都に送られて獄門に架けられたが、3日後に白光を放って東方に飛び去り、この地に落ちた。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったため、村人は恐怖して塚を築いて埋葬し、これが現在残る首塚だとされる。

 平将門は、腐敗した京都の公家に反旗を翻して民衆を救おうとした英雄として崇敬を集め、また最初の武家政権を樹立した人物として、後代の武士達から篤い尊崇を受けた。それは徳川家康が関東に入部してからも変わらず、江戸時代を通して首塚は存続し続けた。またこの地は、4代将軍徳川家綱の時代に、下馬将軍と称されて絶大な権勢を振るった大老酒井雅楽頭(前橋城主)の上屋敷跡でもある。

 現在は東京のビル群の谷間にたたずむ小さな塚に過ぎないが、ここを訪れる人の数は多く、私達が日差しを避けて涼んでいるちょっとの間にも、何人もの人が入れ替わり訪れていた。付近に勤めていると思われるサラリーマンの姿も見られ、現代人からも篤い崇敬を受けている特別な存在であることがよく分かった。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.687366/139.762498/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
nice!(5)  コメント(2) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 5

コメント 2

ノリパ

ここは、東京にすんでいた7年弱の間に何度も前を通り過ぎま
した。けど、1回しか行ってないです。なんか怖かったので…
by ノリパ (2010-10-09 17:31) 

アテンザ23Z

>ノリパさん
ここは、将門信仰のある人じゃないと、何度も来ることはないですよね。
私も、近くには何度も行っているのに、今回初めて行きました。
by アテンザ23Z (2010-10-10 01:16) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント