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七沢城(神奈川県厚木市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC08572.JPG←七沢城跡に建つ病院
 七沢城は、関東管領山内上杉氏が築いた城である。築城の明確な時期は明らかではないが、結城合戦の後の1450年、鎌倉公方足利成氏と関東管領山内上杉憲忠が反目する中で両派の近臣達が争いを起こし、上杉方は七里ヶ浜の合戦で敗れ、憲忠が七沢に要害を構えて立て籠ったことが、七沢城の文献上の初見である。後に、山内扇谷両上杉氏が武蔵を境に争うようになると、扇谷上杉氏は武蔵南半と相模を領有し、七沢城は扇谷上杉氏の持ち城となった。1487年、両上杉氏は遂に長享の乱と呼ばれる武力抗争を開始し、1488年2月、山内上杉顕定は1000余りの軍を率いて鉢形城を出立し、扇谷上杉定正の兄弟七沢朝昌が城主を務める七沢城に攻めかかった。急を聞いた定正は手勢200を率いて河越城より来援して実蒔原で合戦し、小勢ながら地の利を活かして山内勢を打ち破った。一説にはこの時七沢城は一旦落城したとも言われている。その後も七沢城は扇谷上杉氏の一族が城主を務めたが、小田原北条氏が相模を平定してその勢力下に入った頃、廃城になったと思われる。

 七沢城は、現在七沢リハビリテーション病院脳血管センターの敷地に変貌し、遺構は湮滅している。ただ地勢はよく残っており、七沢川西岸の比高20m程の台地に築かれた城だったようである。また七沢城の西の見城山には、七沢城の物見が置かれたと考えられている。七沢城の故地には病院の敷地の北西部に石碑が建っているぐらいのものであるが、周囲には城にまつわる地名が数多く、しかも広範に残るらしい。扇谷上杉氏にとって、平地の糟屋館の後背を押さえる要害として重視されたのであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.447963/139.292779/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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