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小沢城(神奈川県愛川町) [古城めぐり(神奈川)]

DSC09696.JPG←残存する堀切の一部
 小沢(こさわ)城は、1476年に生起した長尾景春の乱の際に築かれた城である。関東管領山内上杉氏の家宰には白井長尾氏が就いていたが、1473年に長尾景信が亡くなると、山内上杉顕定は家宰に景信の嫡子景春ではなく、景信の弟で惣 社長尾氏を継いだ忠景を任じた。これは顕定が白井長尾氏の勢力伸張を警戒したためとされる。これを不満とした景春によって、長尾景春の乱と呼ばれる大乱を招くことになった。この乱の鎮定に活躍したのが扇谷上杉氏の家宰太田道灌で、各地に出陣して豊島氏などの景春方の豪族を破った。この乱の際に景春の家臣金子掃部助が小沢に要害を構えたのが小沢城である。同時に景春方として兵を挙げた溝呂木城・磯部城はわずか1日にして道灌勢に攻め落とされたが、小沢城は2ヶ月近くにわたって持ちこたえ、4月18日にようやく落城した。掃部助は翌年再度小沢城に立て籠ったが、豊島泰経の拠った小机城が落ちると、間もなく小沢城は自落したと言う。その後の歴史は定かではないが、北条氏所領役帳に金子氏が在地豪族として存続していたことが見られるため、小田原北条氏時代にも小沢城は使われていたと考えられる。

 小沢城は、相模川南岸の段丘が半島状に突き出た北端に築かれた城で、眼下には「久所の渡し」と呼ばれる相模川中流域の主要な渡河地点があり、それを押さえる役目を負っていたと考えられる。その縄張りは細野城とよく似ており、主郭南側の台地基部を掘切で分断している。この堀切は、大半は埋められて畑になっているが、堀切のラインはわかりやすい。主郭内部は畑となっており、周囲にはわずかに土塁らしい土盛が見られる。主郭周囲には犬走りもあったようだが、薮がひどくあまり明確には確認できない。主郭部の地名が「城の内」と呼ばれるほか、城坂・馬つくろい場などの地名が残っている。城の地勢はよく残っているが、遺構の湮滅が進んでおり残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.535684/139.328624/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世崖端城
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