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衣笠城(神奈川県横須賀市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC03105.JPG←主郭北辺の段曲輪群
 衣笠城は、相模の豪族三浦氏の本城である。三浦氏は坂東八平氏の一で、三浦氏の祖村岡平太夫為通が前九年の役の戦功によって源頼義から三浦郷を与えられ、康平年間(1058~64年)に衣笠城を築いたと伝えられている。以後、為継・義継・義明の4代にわたって三浦半島経営の中心地となった。1180年、源頼朝は平家打倒の兵を挙げたが石橋山で大敗し、頼朝に呼応した三浦氏は、進軍途中でその敗報を聞いて衣笠城に引き返した。この後、畠山重忠率いる平家の大軍を迎えて攻防戦を繰り広げ(衣笠合戦)、三浦義明は城に残って討死し、落城の憂き目を見た。しかし頼朝が安房で再起して鎌倉に入り幕府を開くと、安房に逃れた三浦氏は北条氏等と共に重臣の列に連なった。頼朝死後の幕府の権力抗争の中でも三浦氏は生き延びたが、次第に執権北条氏との間に対立関係が生じた。そこで三浦氏は北条との武力衝突に備えて衣笠城を中心とする一大要塞地帯を築いたと言う。しかし1247年の宝治合戦で5代執権北条時頼に鎌倉で滅ぼされ、衣笠城を中心とした大要塞は一度も実戦で使われることがなかった。三浦氏の名跡は、北条方に付いた三浦氏の庶流佐原盛時が継いだが、所領は三浦半島南部に限られ、居城を新井城に移し、衣笠城は廃城となった。

 衣笠城は、馬蹄形連丘の最奥に位置する要害で、平安~鎌倉期にはこの様な選地が城郭として理想的だったらしい。(平安京も鎌倉も、同じような地勢である。)かなり古い形態の城で、大善寺裏の丘陵の緩斜面全体を主郭とし所々に段を造っている。主郭北辺には一段高く段曲輪群があって、斜面からの攻撃を防いでいる。主郭の最上部、北西端には物見台が置かれ、城内を監視できるようにしている。この物見台は天然の岩場を利用して築かれており、2段に分かれている。上段は巨大な岩の上に築かれている。その裏の尾根筋は細い小道が通るが、尾根の鞍部があるだけで堀切などは作られていない。これは一つには物見岩からの迎撃で、衣笠城が機能した時代には十分だったからかも知れない。この他、主郭東端にも別の曲輪があり、土壇が築かれている。縄張りとしてはパッとしない印象であるが、古い歴史の生き証人として重要な城である。尚、一部の地図に衣笠山公園に衣笠城があるように記載されているが、これは全くの誤りである。早く訂正して欲しい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.245707/139.654545/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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