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羽衣石城(鳥取県湯梨浜町) [古城めぐり(鳥取)]

DSC06281.JPG←ニノ郭と主郭模擬天守
 羽衣石城は、伯耆の国人領主南条氏の居城である。南条氏は、近江源氏佐々木氏の庶流塩冶高貞の次男南条貞宗を祖とし、貞宗は南北朝期に足利氏に従って軍功を挙げ、2代将軍足利義詮から伯耆守に任ぜられて、1366年に羽衣石城を築いた。以後、南条氏は羽衣石城を拠点に、伯耆守護山名氏に従った。応仁の乱で守護権力が没落すると、南条氏は在地支配の拡大を目指して独立領主化を推し進めた。1524年、出雲の月山富田城主尼子経久は、伯耆に大挙侵攻し、一気に伯耆の諸城を攻め落とした。いわゆる「大永の五月崩れ」で、南条宗勝もこの時羽衣石城を奪われて因幡に逃れ、羽衣石城には尼子経久の子国久が入り、以後、しばらく尼子氏の支城となった。しかし安芸の毛利氏が台頭すると、尼子氏の勢力は衰退し、南条宗勝は1562年に毛利氏の支援を受けて、羽衣石城を奪還した。1566年に尼子氏が滅ぶと、伯耆は毛利領となり、南条氏はその下で東伯耆3郡を支配した。その後、天下布武の野望に燃える織田信長が配下の部将羽柴秀吉に中国経略を命じ、織田勢の山陰侵攻が本格化すると、1579年に南条元続は織田方に付き、毛利方の吉川元春は羽衣石城を攻撃した。元続は、秀吉の助勢で抗戦したが、1582年に秀吉が撤兵すると羽衣石城は落城し、元続は京都に逃れた。1585年に秀吉と毛利氏との間で領土の確定が行われ、八橋城以外の東伯耆は秀吉の支配下となり、再び南条氏が羽衣石城主に返り咲いた。しかし1600年の関ヶ原の戦いで南条元忠は西軍に付いたため、戦後改易されて羽衣石城は廃城となった。

 羽衣石城は、標高376m、比高226mの峻険な山城であるが、途中まで車道が延びており、150m程の高低差で登ることができる。城跡は公園化されており、模擬天守まで建てられているため、整備されすぎで興を削ぐ。歴戦の城にしてはこじんまりした縄張りで、主郭の周囲に腰曲輪状にニノ郭と三ノ郭を配置しただけで、土塁や堀切は全くなく、各曲輪もそれほど広くはなく、山の峻険さだけを武器とした城だった様である。中腹の「お茶の水井戸」付近には土留めの石垣が築かれ、この他大手道の門らしき場所にも石垣が残っている。主郭からかなり下方の北西尾根には段曲輪群が築かれており、そこそこの広さがあるため居館跡と推定されているようだ。整備されすぎるとどんな中世城郭でも白けてしまうという実例で、史跡整備の難しさを感じた。
お茶の水井戸の石垣→DSC06324.JPG
DSC06339.JPG←居館跡とされる段曲輪

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.437114/133.898819/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世山城
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