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西牧城(長野県松本市) [古城めぐり(長野)]

DSC03809.JPG←主郭北側の切岸と堀切
 西牧城は、北条城とも言い、滋野氏の庶流西牧氏の本城である。滋野氏は、佐久・小県地方を本拠とした豪族で、海野氏・真田氏などを輩出したが、鎌倉時代末にはその一族が牧人として安曇郡西牧に土着していたらしい。南北朝時代には、南朝方に属し、仁科・山家氏らと結んで、北朝方の信濃守護小笠原氏に対抗した。戦国時代の1548年塩尻峠の戦いの際には、西牧氏は仁科・山家氏らと共に小笠原長時を裏切って甲斐の武田信玄に内応し、小笠原氏を敗北に追いやり、以降武田氏に従った。その後、小笠原長時は、信玄の信濃侵攻によって1550年に林城を追われ、松本平を転々とした後、西牧城の北西わずか3km弱に位置にある中塔城に籠城した。この為、強い軍事的緊張下に置かれた西牧城は、大きく改修されたと考えられている。1582年の武田氏滅亡後は、信濃に戻って小笠原氏を再興した小笠原貞慶に攻められて、滅亡した。

 西牧城は、標高946m、比高226mの城山山頂に築かれている。大手道は南の尾根筋にあったと考えられ、南麓には大手を防衛する亀山砦が築かれていた。大手は比較的ゆるい傾斜で、途中に広い緩斜面を竪堀状に登城道が延びている。城域に近づくと、大手道は横堀で遮られ、これを越えると腰曲輪に到達する。主城域は比較的コンパクトに纏まっており、不正五角形の主郭を中心に、堀切を介して北と西に曲輪を連ねた連郭式山城である。主郭は、低い土塁が廻らされ、南側に虎口が作られ、虎口に登る道には主郭から横矢が掛けられるように敷設されている。西に連なるニノ郭・三ノ郭をそれぞれ分断する堀切は、それほど大規模なものではなく、深さ3~4m程度で信州の山城としては普通のレベルである。主郭とニノ郭の間の堀切は、二重堀切の様な形状にも見えるが、やや普請が不徹底ではっきりしない。ニノ郭・三ノ郭の南側には腰曲輪があり、主郭南側の腰曲輪と連絡している。主郭南の腰曲輪には矢竹が群生している。ここから浅い堀切と土橋を介して、更に南の腰曲輪に繋がっている。一方、主郭北側は、7~8mの大きな高低差の切岸となっており、浅い堀切を挟んで四ノ郭がある。ここからは普請がかなり不徹底で、削平が甘く、途中からほとんど自然地形のようになってしまう。その先に北東郭群が伸びている様だが、不整形でほとんど曲輪の体を為していない。しかしその先に虎口があるので、城域であったことは間違いない様だ。西牧城は、全体にやや普請が中途半端で、甲斐武田氏が信濃を制圧してからは、あまり重要な軍事拠点ではなかったことを伺わせる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.223097/137.840191/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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