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大聖寺城(石川県加賀市) [古城めぐり(石川)]

IMG_7410.JPG←本丸の天守台
(2005年3月訪城)
 大聖寺城は、錦城山に築かれた山城である。鎌倉時代に狩野一族によって築かれたとされ、鎌倉幕府滅亡後の1335年、中先代の乱の時に北陸で挙兵した北条残党の名越太郎時兼は、越中・能登・加賀の兵を従えて京都へ攻め上ろうとしたが、狩野一門の土豪、敷地・上木・山岸・福田氏らの拠る大聖寺城で交戦し、僅かの兵に打ち負けたと太平記に記されている。その後、津葉五郎清文が城を守ったが、1337年、脇屋義助配下の畑六郎左衛門時能は、敷地伊豆守・山岸新左衛門光義・上木平九郎家光ら狩野氏一党を味方に引き入れ、大聖寺城を攻め落とした。その後は一向一揆衆の拠点となり、1555年には越前朝倉氏の勇将朝倉宗滴が加賀に侵攻し、大聖寺城を落とした。その後、1567年には朝倉氏と一向一揆の間で和議が成立し、朝倉方の大聖寺城は破却されたが、1575年に越前を平定した織田信長は、大聖寺城を修復して戸次右近広正を城将とした。信長の重臣柴田勝家は、1580年、加賀一向一揆の拠点尾山御坊(現在の金沢城)を攻め落とし、大聖寺城には拝郷五左衛門家嘉を配した。1582年に本能寺の変で信長が横死し、柴田勝家と羽柴秀吉が後継を巡って争うと、翌83年の近江柳ヶ瀬の役で家嘉は討死した。勝家を北の庄城に攻め滅ぼした秀吉は、溝口金右衛門秀勝を大聖寺城に入れ、丹羽長秀の与力とした。1598年、秀吉の甥小早川秀秋の家臣山口玄蕃頭宗永が大聖寺城に入部したが、1600年の関ヶ原の前哨戦となった前田利長との合戦で、大聖寺城は前田勢に攻め落とされ、宗永は自害した。関ヶ原合戦後、戦功により前田家が加賀・能登・越中百万石の大藩となると、引き続き大聖寺城を支城としたが、1615年、元和の一国一城令で大聖寺城は廃城となった。1639年、加賀藩3代藩主の前田利常は、三男利治に7万石を分封し加賀藩支藩として大聖寺藩を立藩した。藩政時代、大聖寺城は入山を禁止された。

 大聖寺城は、標高65mの丘陵上に築かれた城である。本丸を中心として、大きく馬蹄形に戸次丸・三ノ丸・二ノ丸・西ノ丸・鐘ヶ丸・東丸を連ね、更にそれらの主要な曲輪の周囲に腰曲輪を備えた縄張りとなっている。堀切による分断防御はほとんどなく、曲輪を高低差をつけて連ねただけという印象である。しかし馬洗池が残っていて、水の手には困らなかったのだろう。しかし城としての要害性は左程ではなく、故に歴史上落城も多かったと思われる。尚、細長い本丸には天守台が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.308045/136.303285/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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