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岩谷城(福島県三島町) [古城めぐり(福島)]

DSC01798.JPG←主郭北側の虎口
 岩谷城は、会津の戦国大名葦名氏の支城である。伝承では室町時代の1390年に葦名氏の家臣井上氏が築いたと言われている。戦国時代には葦名盛氏の老臣松本図書が城を預かっており、その城代として井上河内が詰めていた。岩谷城は奥会津に勢力を扶植していた山ノ内領に接する境目の城で、山ノ内氏の支城桧原丸山城鴫ヶ城に近く、越後上杉氏の支援を背景に半ば独立していた山ノ内氏との間で、葦名方の支城であった岩谷城は、強い緊張下に置かれていたと推測される。そして1558年、横田中丸城主山ノ内俊清の二男俊政と三男俊範は、岩谷城を急襲して奪取する事件が発生した。そこに至る経緯の詳細は不明であるが、この報を受けた葦名盛氏は激怒し、直ちに山ノ内俊政兄弟を討伐しようとした。しかし、たまたま盛氏の居城黒川城に居合わせていた山ノ内氏一族の沼沢出雲守の仲裁で討伐は回避され、以後、山ノ内氏は葦名氏に従うようになったとされている。1589年、摺上原の戦いで葦名氏を滅ぼした伊達政宗は奥会津に侵攻し、桧原丸山城と岩谷城を突破して、山ノ内氏勝の居城横田中丸城を攻撃したと言う。豊臣秀吉の奥州仕置後、廃城になったと思われる。

 岩谷城は、滝谷川東岸に半島状に突き出した急峻な岩山の上に築かれている。比高は100m程に過ぎないが、周りを急峻な断崖で囲まれており、屈指の要害である。登道は明確ではないが、東麓に古道と平場群が広がっており、そこから断崖を無理やり直登した。山頂の主郭は思ったよりも広く、東側に腰曲輪を2段築いている。北側にも段曲輪2段あって、土塁と岩を利用した虎口が築かれており、巧みに動線を屈曲させた構造となっている。どうもこちらが大手だったらしい。とすると、現在は残っていないが、北に伸びる尾根に大手道があったのかもしれない。いずれにしても小規模なほぼ単郭の山城で、平地の居館に対する詰城であったものであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.486729/139.694680/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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