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大津城(静岡県島田市) [古城めぐり(静岡)]

DSC02532.JPG←北郭の櫓台
 大津城は、南北朝の動乱期に駿河南朝方の佐竹兵庫入道・中山三郎左衛門尉らが立て籠もった城である。佐竹・中山らは石塔義房の家人で、義房は足利一門であったが、直義方であった為、1350年に生起した観応の擾乱では、南朝と和睦した直義に従って尊氏と敵対した。従って、佐竹・中山らも南朝勢力と協力して安倍城に立て籠もり、尊氏方の今川範国と抗争したのである。しかし尊氏の命で派遣された援将伊達景宗が今川勢を率いて安倍城を攻め落とすと、佐竹・中山らは大津庄の山中に退去して大津城を築き、今川氏に抵抗を続けた。直義死後の1352年9月、伊達景宗は今川範氏と共に大津城を20日間に渡って攻め続け、落城させた。

 大津城は、現在「野田の城山」の山頂に残る城郭遺構(野田城とも呼ばれる)がそれではないかと推測されている。野田城については、『駿河志料』等では永禄年間(1558~69年)に武田氏の家臣初鹿野傅右衛門の城であったともされる。

 大津城と推測されている遺構は、標高153m、比高93mの独立丘陵上に築かれている。周囲を確認したところ北尾根の先端からわずかに山道があるのがわかり、そこから登城した。山頂部に主郭を置き、派生する四方の尾根に腰曲輪を配し、要所を堀切で防御した、比較的簡素な縄張りである。主郭は、薮で形状が掴みにくいが、段差があり上段・下段の平場に分かれている。東側は茶畑で改変されているが、腰曲輪になっていたらしい。主郭北側には堀切を介して、ニノ郭と思われるやや広い曲輪があり、そこから北西尾根には腰曲輪と堀切があり、この堀切は横堀形状で南側だけ直角に竪堀に曲げて落としている。登ってきた北尾根の先端には、方形の櫓台とその背後に空堀があり、北郭と思われる広めの腰曲輪、更にその上方に堀切が穿たれている。主郭の西尾根にも堀切と小郭、東尾根にも背後に土塁と堀切が築かれた腰曲輪がある。堀切はいずれも小規模で、曲輪もそれほど大きなものはないが、削平は明確で南北朝期以降に改修された可能性を示している。但し、戦国後期の城とするには、遺構的にやや充実度は低く、なかなか年代的な判断に迷う城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.849981/138.180488/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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