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八木城(京都府南丹市) [古城めぐり(京都)]

IMG_6731.JPG←本丸の天守台跡
 八木城は、丹波守護代内藤氏の居城である。1333年に足利尊氏が丹波篠村八幡で挙兵した際、内藤左衛門尉が参陣して軍功を挙げ、また1336年正月の京都争奪戦に敗れ、丹波に敗走した尊氏を内藤左衛門尉が館に迎えたことが太平記に記載されている。以来、丹波の有力国人として重きを成し、丹波守護を兼帯した三管領家の一つ細川氏の下で1431年以降、代々守護代を務めた。1507年の管領細川政元の暗殺後、丹波守護家でもあった細川氏内部の抗争により、丹波にも抗争の余波が広がった。内藤国貞は始め細川高国に従ったが、1526年に高国が細川尹賢の讒言を信じて近臣の香西元盛を誅殺し、怒った波多野稙通・柳本賢治兄弟(共に香西元盛の兄弟)が高国から離反して挙兵すると、国貞もこれに呼応して尹賢の率いる追討軍から離脱した。その後、三好長慶が細川晴元と対立した時には、長慶に属した。1553年に長慶の部将松永久秀らと共に晴元方の八上城主波多野晴通を攻めたが、返って香西元成・三好政勝らに攻められて八木城は落城し、国貞は討死した。しかし久秀の弟長頼が間もなく八木城を奪回し、長頼はそのまま八木城を預けられ、内藤氏の名跡を継承して内藤備前守宗勝を称した。1565年に宗勝は、勢力を伸ばしてきた黒井城主赤井直正との和久郷合戦で大敗し、討死した。宗勝の子が飛騨守忠俊で、ルイス・フロイスより洗礼を受けてジョアン(如安)と号し、有名なキリシタン大名となった。忠俊は、織田信長に擁立された足利義昭に仕え、信長との戦いの際にも義昭方として二条城に出陣した。義昭が信長に敗れて毛利氏を頼って鞆ノ浦に逃れた後、1579年に明智光秀によって八木城は攻め落とされ、忠俊は鞆ノ浦に逃れて隠棲し、丹波の戦国大名内藤氏は滅亡した。

 八木城は、桂川の西にそびえる標高330mの城山に築かれている。丹波三強と呼ばれた内藤氏の居城であり、丹波の三大城郭の一つに数えられるだけあって、広大な城域を有している。北東の高速裏の登口から登ると、最初に屋敷群の平場群が目に飛び込んでくる。その名の通り、家臣団の屋敷だったものと思われ、平場群の中に切通し状の通路跡や土塁が散見できる。そこから山道を登って行くと大手を守る対面所と呼ばれる出丸を経由して、本城域に達する。東端に本丸を置き、間に馬屋と呼ばれる繋ぎの曲輪を置いて、その西側に二ノ丸を配置している。本丸はかつてはかなりの石垣があったと思われるが、現在はかなり失われている様だ。前段に腰曲輪群を置き、後部には「金の間」と呼ばれる小さな天守台を残している。ここから南の尾根には内藤土佐郭という出丸があり、間には小堀切が穿たれている。馬屋曲輪は西端に櫓台を築き、二ノ丸や北郭群への防御を固めている。ここから北の尾根には、段曲輪群の先に内藤五郎郭があり、大堀切を挟んで並河重郎郭がある。いずれも腰曲輪や土塁で防衛された出丸で、内藤五郎郭から本城へ向かう位置には石積みの木戸口があったらしく、崩落した石が散乱している。一方、馬屋曲輪の西には堀切を挟んで二ノ丸があり、上下2段の曲輪に分かれている。二ノ丸の南西には八木玄蕃郭があるが、数段の平場だけで構成された簡素な郭である。その更に西の峰には内藤法雲郭がある。広い曲輪で構成され、南端に櫓台と大堀切が築かれている。ここには城中最大の石垣が残っている。内藤法雲郭は最も防備が厳重で、おそらく詰城の位置付けだったのだろう。いくつか散見される石垣は、おそらく破却されたものらしく、かなり失われているが、それでも往時の雰囲気をよく残している。
内藤法雲郭の大堀切→IMG_6873.JPG
IMG_6874.JPG←内藤法雲郭の石垣
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.061247/135.523717/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
タグ:中世山城
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