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山野内城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9814.JPG←東郭群の腰曲輪
 山野内城は、山内首藤氏の後裔とされる須藤氏の居城である。山内首藤経俊は、源頼朝の乳母山内尼の子であったが、頼朝が石橋山で挙兵した時には平家方として敵対し、頼朝が関東を制圧すると山内尼の助命嘆願により許され、頼朝に従った。経俊は後に奥州合戦で戦功を挙げて奥州桃生郡を賜り、一族が入部して奥州に地歩を記した。山野内城はその飛び領であったと伝えられている。南北朝期の1355年には須藤刑部定安の居城であったと言われ、戦国期にはその後裔須藤刑部定信が城主であったが、1584年に結城七郎と戦い敗れて、山野内城は落城した。定信は杭城へと逃れたが、最後は福岡川崎で自刃したと伝えられている。一方、南北朝期にこの付近に勢力を持っていた大河戸氏が南朝方に付いて皇子山村宮を奉じ、山村宮軍がこの地を拠点として北朝方と戦ったことから、山村城(山邑城)とも呼ばれたと推測されている。

 山野内城は、七北田川南岸にそびえる河岸段丘の先端部に築かれた城である。東端の腰曲輪に阿弥陀堂があり、そこへの階段から城内に登ることができる。北側は断崖となり、一部は採土と崩落により失われているが、中央の谷戸部を挟んで東西に郭群が築かれている。東郭群が本城と思われ、最高所に円形の主郭を置き、南に腰曲輪を数段築き、虎口を設けている。主郭から東に伸びる尾根上も物見台的な細長い曲輪を置き、その南面に数段の腰曲輪群を築いている。主郭の西側の窪地部分にも緩斜面の曲輪があるが、背後には土塁が残り、またここには役割不明の堀状の溝がある。ここから谷戸に向かって道が伸びており、これが往時の大手だったと推測される。一方、西郭群は西方警戒の物見台的な役割であったと考えられ、頂部にそびえる平場とその下方斜面に散在する腰曲輪群のみで構成されている。特に中央の谷戸に向けて重点的に腰曲輪が築かれている。山野内城は、遺構はよく残っているが、平場群のみで構成された比較的小規模な城砦で、技巧性も乏しく、古い形態のまま戦国期まで存続した城だった様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/?ll=38.320296,140.822024&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
タグ:中世山城
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