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長崎楯(宮城県気仙沼市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1817.JPG←主郭西側の堀切
 長崎楯(長崎館)は、赤岩城主熊谷氏の支城である。長崎楯の創築については文献がなく不詳であるが、戦国期の熊谷氏一族の内訌の中で歴史の表舞台に現れる。1533年、赤岩城主12代熊谷直景が葛西氏に背任の疑いをかけられて攻め滅ぼされると、直景の弟で長崎楯城主の直光が、葛西氏から赤岩城の領地を与えられたが、これを機に熊谷一族内部で内紛が起こった。その経緯は赤岩城の項に記載する。結局40年にも及んだこの内訌は、長崎楯の熊谷氏の滅亡で終止符が打たれた。

 長崎楯は、その名も「舘山」地区の最高所の標高64mの丘陵上に位置している。この舘山地区は殆どが住宅地に変貌しているが、かなり急峻な地形となっており、上り坂の勾配もかなりきついので、ここで生活している人の苦労は想像するに余りある。楯跡は長円形の平場となっており、畑となっている。主郭外周には腰曲輪らしい平場が、やはり畑などになって残っている。主郭の西側にも平坦な平場が数段広がっており、ここも曲輪だったのだろう。主郭の西側には土塁と明確な堀切が1本あり、ここが楯跡であることを明示している。訪城した時、最初はこの推定地が楯跡である確証がなかったが、この堀切のおかげで場所確定となった。長崎楯は、城郭遺構としてはあまり面白みはないが、陸奥熊谷氏内訌の舞台として重要である。
主郭跡→IMG_1819.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/?ll=38.905445,141.562228&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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