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高久城(茨城県城里町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7543.JPG←三ノ郭南西の腰曲輪
 高久城は、佐竹氏の庶流高久氏の居城である。元々は1293年に大掾氏の家臣鈴木五郎高郷の後裔高範が築いたと言われている。その後、鎌倉時代後期に佐竹氏8代行義の6男馬渕小三郎景義が高久に移って城を再築し、その子式部大輔義有が高久氏を称したと言う。室町中期になると、佐竹宗家12代義盛が嗣子なく没した後、関東管領上杉氏からの入嗣を巡って一族の山入氏・長倉氏・額田氏らが反発し、家中で大規模な内訌が発生した(山入の乱)。この乱は100年近くにわたって佐竹氏を揺るがしたが、1428年に高久義本・義景父子も佐竹宗家に反し、大山城主大山義道に高久城を攻め落とされた。また戦国前期には、佐竹義篤の弟部垂義元が反乱を起こし(部垂の乱)、高久義貞は義元方となって戦ったが、義篤に平定された。その後は佐竹宗家に従い、奥州諸豪を巻き込んだ伊達氏の内訌「天文の乱」の際には、相馬氏と戦った1543年の陸奥久保田・関山合戦において、高久氏も佐竹宗家に従って参陣し、9代義時・10代義貞・その子宮寿丸は窪田陣からの帰陣の際、関山で討死して高久氏は断絶し、城は廃されたと言う。

 高久城は、比高25m程の台地先端部に築かれた城である。城内はかなり改変されており、宅地や畑、墓地などに変貌している。主郭は現在、館部落の共同墓地となっており、東斜面に帯曲輪を伴い、北側に堀切が穿たれているが、藪がひどくほとんど判別できない。主郭南には車道が切通し状に貫通しているが、これも往時の堀切を拡張したものだろう。その南に先端の笹曲輪があるが薮で進入できない。昭和20年代前半の航空写真によれば、主郭の北には堀で隔てられたニノ郭・三ノ郭が東西に並び、その更に北側に外郭があった様だが、堀は現在ではほとんど湮滅している。外郭の北側には台地基部を分断する堀切の一部が残っている。中間に土塁を削り残した二重堀切と思われるが、もう1本堀らしい地形があり、実は三重堀切だった可能性もある。この他、三ノ郭の南西斜面に横堀状の腰曲輪が残っている。標柱も解説板も設置されているが、遺構の湮滅が進んでいるのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.492405/140.361650/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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