赤尾関城(茨城県水戸市) [古城めぐり(茨城)]
←民家裏に残る土塁
赤尾関城は、常陸の豪族江戸氏の支城である。南北朝時代に常陸南朝方の拠点であった瓜連城が幕将高師冬に攻め落とされると、南朝方だった那珂氏は一族の多くが討死し、那珂通辰の子通泰のみが逃れえた。その後、通泰は再起して鎌倉公方に従って転戦し、常陸国那珂郡江戸郷を与えられ、その子通高が江戸氏を称した。通高は、小山若犬丸が立て籠もった難台山城攻撃で討死し、その功により通高の子通景は鎌倉公方足利氏満から新領として河和田・鯉淵・赤尾関などを与えられ、河和田城を本拠とした。一方、赤尾関には通高の子金永が入部して赤尾関城を築いたと言われている。その後の歴史は不明であるが、江戸氏の支城として存続したのだろう。
赤尾関城は、古矢川支流に臨む微高地に築かれている。城内はほとんど民家に変貌し、車道も東西に貫通しているため、遺構の湮滅が進んでいる。しかし道路沿い南側と民家の北側の小道沿いにわずかに土塁が残っている。戦後間もなくの航空写真を見ても、今とあまり変わらないぐらい遺構が破壊されており、往時どのような縄張りだったのかもはっきりしない。どちらにしても民家裏の遺構なので、不審者と間違われないよう、訪城の際は注意が必要である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.364922/140.372250/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
赤尾関城は、常陸の豪族江戸氏の支城である。南北朝時代に常陸南朝方の拠点であった瓜連城が幕将高師冬に攻め落とされると、南朝方だった那珂氏は一族の多くが討死し、那珂通辰の子通泰のみが逃れえた。その後、通泰は再起して鎌倉公方に従って転戦し、常陸国那珂郡江戸郷を与えられ、その子通高が江戸氏を称した。通高は、小山若犬丸が立て籠もった難台山城攻撃で討死し、その功により通高の子通景は鎌倉公方足利氏満から新領として河和田・鯉淵・赤尾関などを与えられ、河和田城を本拠とした。一方、赤尾関には通高の子金永が入部して赤尾関城を築いたと言われている。その後の歴史は不明であるが、江戸氏の支城として存続したのだろう。
赤尾関城は、古矢川支流に臨む微高地に築かれている。城内はほとんど民家に変貌し、車道も東西に貫通しているため、遺構の湮滅が進んでいる。しかし道路沿い南側と民家の北側の小道沿いにわずかに土塁が残っている。戦後間もなくの航空写真を見ても、今とあまり変わらないぐらい遺構が破壊されており、往時どのような縄張りだったのかもはっきりしない。どちらにしても民家裏の遺構なので、不審者と間違われないよう、訪城の際は注意が必要である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.364922/140.372250/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
2016-12-05 02:00
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