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戸崎城(茨城県かすみがうら市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7811.JPG←主郭の堀切跡
 戸崎城は、小田城主小田氏の支城である。現地解説板によれば、応仁の乱(1467~77年)の頃に小田氏の有力家臣の戸崎大膳亮によって築かれたのではないかと言われている。その後、1573年に佐竹氏の攻撃により、宍倉城と共に落城した。一説ではその後、1577年に戸崎城奪回の戦いがあり、大膳はその戦いで討死したとも伝えられる。一方、古文書によれば小田氏重臣の菅谷一族の城と伝えられ、1564年頃に上杉謙信が小田氏の主要城郭を書き上げた『小田氏治味方地利覚書』には菅谷次郎左衛門が城主と見え、1590年の『毛利家文書』でも「外崎 菅屋上総守」とあることから、戸崎菅谷氏の城として存続していたらしい(おそらく戸崎菅谷氏=戸崎氏なのであろう)。もっとも戦国末期には小田氏は佐竹氏に降っているので、佐竹氏の属城となっていたと思われる。1595年には、戸崎城は佐竹氏家臣の飯塚兵部少輔が管理するところとなった。1602年に佐竹氏が出羽秋田に移封となると、戸崎城は廃城となった。

 戸崎城は、霞ヶ浦北方の台地上に築かれている。台地上の広範囲を城域に取り込んだ城で、北の突出部に主郭、堀切を挟んでその南に二ノ郭、更に堀切を介して「中城」と呼ばれる三ノ郭、その背後に「外城」と呼ばれる広大な外郭を配置していた。現在は三ノ郭・外郭は宅地化が進み、旧状を推し量るのは難しいが、台地の縁に腰曲輪らしい平場が散見される。主郭・二ノ郭は畑になっているが、いずれも背後の堀切跡が畑に変貌しつつも明瞭に残っている。また主郭周囲には一段低く腰曲輪が取り巻いているのもはっきりと分かる。この他に、外郭の東端に「山崎出城」と仮称される出城があるようだが、今回は夏場の訪城であったため、未見である。宅地化の進んだ城にしては、主郭・二ノ郭だけとは言え、旧状をよく残している城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.080459/140.273159/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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