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谷田部城(茨城県つくば市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7857.JPG←八幡宮裏にある段差
 谷田部城は、小田城主小田氏の支城である。鎌倉後期に小田氏5代宗知の子、小田宗寿が谷田部に分封され、谷田部城を築いて谷田部氏の祖となったと言う。以後谷田部氏は、小田家中において一門六家に名を連ねる重臣となった。1549年に編纂された『小田家風記』には、谷田部城主として谷田部刑部少輔の名が見える。しかしその後、同じ小田氏の重臣で牛久城主岡見氏の管理下に入った様である。1570年、岡見頼忠が城主の時、下妻城主多賀谷政経・経伯兄弟の攻撃を受けて落城し、多賀谷経伯の居城となった(この時の谷田部城主は谷田部寿教だったとの説もあるが、その後の谷田部城奪還戦は岡見氏が主導しているので、岡見氏の属城になっていた可能性が高い)。1580年、北条氏照の支援を得た頼忠は、1千騎で谷田部城を攻撃し、多賀谷経伯・経明を激戦の末、追い詰めて自刃させた。しかし谷田部城は、再び多賀谷政経の子重経に攻撃され、頼忠は流れ矢を受けて討死し、重経が谷田部城主となって、渡辺越前守・平井手伊賀守ら25人を置いて支配した。1589年には、牛久城主岡見治広が谷田部城奪還を図ったが、不成功に終わった。1602年、佐竹氏が出羽秋田に移封となると、多賀谷氏も秋田へ移った。近世には、肥後熊本藩細川氏の分家が谷田部藩を立藩し、谷田部陣屋が置かれた。

 谷田部城は、谷田川と西谷田川に挟まれた台地上に築かれていたらしい。現在は宅地化で改変されつくされ、しかも近世には城の北側に陣屋が置かれて町割りがし直されたらしく、往時からは相当な改変を受けた模様で、具体的にどこに城があったのかも明確ではない。一応、八幡宮が建っているのが往時の主郭とされている。江戸時代に描かれた古絵図が残っているが、現在の道路配置にも縄張りの名残を見ることができず、戦後の航空写真でも既に塁線がわからないので、実際にどこまでが城域だったのかも含め、不明点が多い城である。しかし遺構不明ながらも、二の丸という地名はあるし、歩いて回ると堀状地形や切岸地形があり、何となくこれが城跡かなという雰囲気は感じられる。

 尚、谷田部城は、その位置だけでなく歴史にも不明点が多く、小田氏支配時代の城主が谷田部氏だったのか、岡見氏だったのかについても、必ずしも明確ではないことを付記しておく。
二の丸地区にある堀状の畑→IMG_7860.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.031696/140.077701/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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