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高井城(茨城県取手市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9073.JPG←主郭の虎口
 高井城は、千葉氏の庶流下総相馬氏の支城である。その創築は不明であるが、1336年、鎌倉府執事であった斯波家長により相馬親胤宛に発給された奉書に高井の地名が見えることから、既にこの時期には相馬氏の所領となっていたことが判明している。その後の歴史は必ずしも明確ではないが、相馬氏の一族が城主となって、いつの頃からか高井氏を称し、天正年間(1573~92年)まで存続した。永禄年間(1558~69年)には、高井治胤が相馬宗家の家督を継いでおり、宗家に近い家柄であったことがわかる。高井胤永の時、小田原の役で小田原北条氏が滅ぶと、その傘下に入っていた相馬氏と高井氏も没落した。しかし、胤永の3男胤正の子孫が横瀬伊勢守保広と名乗って江戸時代前まで高井城に居住したが、江戸時代に入ると広瀬氏と改めて帰農し、廃城となった様である。

 高井城は、小貝川南岸の比高15m程の河岸段丘上に築かれている。現在、城址公園として主郭を中心に整備されているので、夏でも訪城可能である。現地解説板の縄張図によれば、方形の主郭を中心に、南北に二ノ郭・三ノ郭があり、更に台地東側に外郭が広がっていたらしい。主郭は外周を土塁で囲まれ、南に堀切が穿たれ、土橋の架かった虎口が築かれ櫓台が付随している。また主郭の西側斜面に腰曲輪が築かれ、二ノ郭付近まで伸びている。この腰曲輪は、主郭から出た部分が独立した曲輪となっており、虎口郭であったと思われる。主郭と二ノ郭は、現在は土塁でしか区切られていないが、縄張図には堀があったとされている。埋められてしまったのだろうか?三ノ郭は主郭と堀切で分断され、やはり西側斜面に腰曲輪を伴っている。三ノ郭や外郭には櫓台もあったらしいが、現在は僅かな痕跡しか残っていない。本城の守谷城と比べると素朴な縄張りで、これが下総相馬氏の本来の築城レベルであったのかと推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.930170/140.040021/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世崖端城
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