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泊崎城(茨城県つくば市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9186.JPG←船着き場への小道か?
 泊崎城は、牛久城を本拠とする岡見氏を攻撃するため、多賀谷氏が築いた城である。戦国後期になると、佐竹氏と結んだ下妻城主多賀谷政経・重経父子は小田氏・岡見氏に対する攻撃を強め、1570年には岡見氏の有力支城であった谷田部城が落城し、城主岡見頼忠は牛久城に逃れ、小田原北条氏に救いを求めた。北条氏政は、最前線に位置する牛久城を防衛するため、近隣の他国衆を交代で在番衆として送り込んだ(いわゆる牛久番)。しかし1587年には、多賀谷氏が牛久城・東林寺城の西隣に泊崎城を築城し、岡見氏の牛久・東林寺両城と足高城の間に楔を打ち込み、連携を封じることに成功した。孤立した足高城は間もなく落城し、岡見氏は更に危殆に瀕することとなった。しかし牛久城は守りきったまま、1590年の小田原の役を迎えることとなった。

 泊崎城は、牛久沼に突き出した半島状台地に築かれている。先端ではなく、台地の中ほどに主郭が築かれているのが珍しい。対岸に牛久城を望む位置にあり、主郭同士は直線距離でわずか1.6km程しか離れていない。私がよく参考としているHP「城郭図鑑」に「牛久城と目と鼻の先の距離であるこの地で城普請を行った重経の豪胆さには驚くばかりである」と記載されているが、誠にその通りである。遺構自体は高度成長期に宅地化され、今では完全に湮滅しているが、昭和20年代の航空写真には、出枡形を伴う空堀で囲まれた方形の主郭と、大きく屈曲した西側の堀切、食違い虎口を伴った直線的な東側の堀切がはっきりと写っている。遺構は期待できないが、先端の泊崎大師堂からの眺望に優れ、また住宅団地北西端には船着き場への降り口かとも思える小道が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.950948/140.116947/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世崖端城
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