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阿久利川事件跡(宮城県栗原市) [その他の史跡巡り]

IMG_3001.JPG←解説板の建つ一迫川畔
 阿久利川事件は、前九年の役において、陸奥守兼鎮守府将軍源頼義と俘囚長安倍氏との本格的な戦闘が始まる画期となった事件である。朝廷への貢納を怠るようになった安倍頼良は、1051年の鬼切部の戦いで勝利した翌年、朝廷からの大赦布告によって罪を免ぜられ、新任の陸奥守源頼義に服属して名を頼時と改めた(頼義と同音であるのを避けるため〔避諱〕)。しかし1056年の夏、任期が間もなく終わる頼義が、鎮守府の胆沢城から国府多賀城への帰途、阿久利川のほとりに宿営した際、頼義配下の権守藤原説貞の子光貞・元貞の陣屋が何者かに襲撃され、元貞の人馬が殺傷される事件が発生した。将軍頼義は詮議の結果、安倍頼時の子貞任の仕業と断定し、一方的に貞任を罰しようとした。貞任の出頭を命ぜられた頼時はこれを拒絶したことから、武力衝突が始まった。
 尚、この事件は、早くから西国に勢力を扶植して中央政界でも立場を強めつつあった平家に対し、出遅れていた源氏の棟梁頼義が、源氏の勢力を伸ばすために奥州制覇の野望があり、陸奥守の任期を伸ばして安倍氏を攻撃するために仕掛けた謀略との説が古くから根強い。そしてその野望は、子の源義家に引き継がれ、頼朝に至って結実することとなる。

 阿久利川事件跡は、正確な場所は必ずしも明確ではないが、近年の研究によって宮城県栗原市の築館と志波姫の境、一迫川畔の「阿久戸」という地域が比定地として有力とされている。この地から川を挟んですぐ北西には奥州街道が通り、古代城柵でもある伊治城があることから、古くからの交通の要衝でもあり、軍団の宿営地として考えるには十分な説得力がある。現在は一迫川の堤防内を通る車道脇に解説板が建っている(以前は標柱もあったようだが、現在は失われている)。伊治城に行く途中で、知らずにたまたま通りかかって解説板を見つけたのだが、こんなところで日本史の画期となる事件が起こっていたとは、地元の人にもあまり知られていないであろう。尚、解説板には「古戦場跡」と記載されているが、合戦があったわけではなく襲撃事件であるので、一般に広まっている「事件跡」という呼称を採用した。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.762399/141.041965/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
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