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布川城(茨城県利根町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8780.JPG←主郭~馬出し間の堀切
 布川城は、古くは府川城と記載され、この地の豪族府川豊島氏の居城である。府川豊島氏の出自には諸説あり、武蔵の豪族豊島氏の一流とする説、1244年に摂津にいた豊島頼保が移ってきたとする説等があり、定かにできない。布川城の築城時期も明確ではないが、現地解説板では1519年としている。その歴史が明確になるのは、永禄年間(1558~69年)の豊島頼継が城主の時からで、頼継は関東の大勢力となった小田原北条氏に属して、この地の支配権を維持した。1590年の小田原の役の際には、当主豊島貞継は小田原城に入って宮城野口を守備した。その弟頼重は布川城を守ったが、来攻した豊臣方の重臣浅野長政に降伏した。その後頼重は、忍城攻囲戦に参加して負傷し、それが元で没した。北条氏の滅亡後、頼重の子明重が名跡を継ぎ、徳川家康に属してその旗本となった。家康から改めて武蔵国富岡郷1700石を与えられ、移り住んだ。豊島氏が移封後、松平信一が布川城に5000石で入城した。関ヶ原合戦後の1601年、信一は土浦城3万5千石に移封となり、布川城は廃城となった。

 布川城は、利根川東岸の比高10m程の台地上に築かれている。現在はかなり市街化が進んで破壊を受け、遺構はかなり断片的になっている。主郭は現在の徳満寺の位置にあり、利根町役場が建っている部分に二ノ郭があったとされる。徳満寺の裏には土塁が残り、西に堀切を穿ち土橋で連結された馬出しとされる小郭を築いている。町役場との間のL字型の車道は往時の堀跡である。主郭の北東には三ノ郭が広がり、徳満寺の北東150mの位置にある八幡宮は、三ノ郭北東端の櫓台跡であった可能性がある。昭和20年代前半の航空写真を見ると、三ノ郭の東に更に広大な外郭が広がっていたらしく、往時は一面の畑であったが、現在は住宅地や大学キャンパスに変貌している。外郭は、日本ウェルネススポーツ大学の2つのキャンパスと布川神社の部分まで広がっていたらしい。広い外郭を有した城であったことが窺われるが、改変が進んでしまっているのは惜しいことである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.856970/140.140185/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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