SSブログ

岩倉城(石川県小松市) [古城めぐり(石川)]

IMG_4474.JPG←土塁で囲まれた主郭
 岩倉城は、加賀一向一揆が築き、後に織田軍の城砦となった。享禄年間(1528~32年)に一向一揆勢が越前朝倉氏の猛将朝倉宗滴の攻撃に対して城を築いたとされ、城主は沢米左衛門、家老は勘右衛門・惣左衛門と伝えられている。元亀年間(1570~73年)頃には、鈴木出羽守が守る鳥越城の出城として三坂峠を守った。1575年、織田軍の攻撃により落城したが、一揆勢によって再び奪還された。その後、両軍の最前線基地として攻防が繰り返されたが、1580年、織田信長は北の庄城主柴田勝家に加賀一向一揆の平定を命じ、11月に鳥越城が落城した。その後も一揆残党が蜂起して一時は鳥越城・二曲城を奪還するなどしたが、1582年に信長の命を受けた佐久間盛政は、一揆残党に対して峻烈な弾圧を行い、100年にわたって加賀を支配した一向一揆は壊滅した。加賀一向一揆が殲滅されると、岩倉城も対の城としての役割を終えたものと推測されている。

 岩倉城は、標高296m、比高230m程の山上に築かれている。南西麓から登山道が整備されており、国土地理院地形図にも道が記載されているので、GPSさえ持っていれば迷うことはないが、城までの道程は長い。山麓の国道脇に出ている道案内図は地元の有志が作ったらしい力作だが、あまりにザックリし過ぎているのと、距離感や実際のルート形状が合っていないので、ほとんど参考にならない。とにかく分岐が出てきたら真っ直ぐ進んで行けば城址に至る。城に近づくと、広い平坦な尾根があり、米左衛門屋敷(おそらく城主居館)とされている。その先では道が二又に分かれ、左が大手道で主郭に至り、右が岩倉観音のある帯曲輪に至る(以下、遺構の名称は現地縄張図の表記に従う)。岩倉城は全周を土塁で囲繞した大型の縦長の主郭を持ち、北西・北東・南西の3ヶ所に虎口を設けている。大手門は北西の虎口とされ、前述の大手道は堀底道となってここに至る。虎口の前には小郭が置かれ、城道はここで90度折れ、更に反対方向に90度折れていて、実質的な桝形虎口となっている。この城で素晴らしいのは搦手門とされる北東の虎口で、外に広い土塁で囲まれた角馬出しを設け、更にそこから南北2方向に虎口が開いている。南の虎口は平虎口で腰曲輪に通じているだけだが、北の虎口は土塁で囲まれた細い屈曲した枡形通路となり、主郭北側下方の攻撃用虎口郭に通じている。この攻撃用虎口郭というのも角馬出しで、全周を土塁で囲み、北東と南西の2ヶ所の虎口が開き、北東の虎口の外は更に横堀状通路となって北尾根に通じている。主郭の北側の土塁は周囲より一段高くなった櫓台となっていて、この攻撃用虎口郭を上方から見下ろせるようになっている。この様に主郭搦手は二重馬出しを設けた、巧妙な多重桝形虎口となっている。主郭南西の虎口は現地表記では東門とされ、西の帯曲輪から入る虎口で、わずかに土塁が食い違いとなっている。この他、主郭の外周には帯曲輪・腰曲輪が廻らされ、南東尾根の先は小ピークとなり出曲輪が設けられている。
 岩倉城は、大規模な城ではないが、二重馬出し・多重桝形虎口を設けるなど、縄張り的には加賀南部の城の中では鳥越城・舟岡山城に並ぶ出色の城で素晴らしい。こうした造りは織田氏勢力の築城法と推測され、織田勢が鳥越城攻撃の拠点として、この城を大きく改修したことを物語っていると考えられる。現地解説板でも玄蕃尾城との類似を指摘している。尚、この解説板、手書きの古いものではあるが、縄張図もかなり正確で、解説記述も細部にわたっており、見事な力作である。これほど遺構も見事で、整備もしっかりされているのに、県も市も史跡に指定していないのは不思議というほかはない。
馬出し間を繋ぐ桝形通路→IMG_4522.JPG
IMG_4526.JPG←角馬出し(攻撃用虎口郭)
米左衛門屋敷→IMG_4448.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.378536/136.562655/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


織豊系陣城事典 (図説日本の城郭シリーズ6)

織豊系陣城事典 (図説日本の城郭シリーズ6)

  • 作者: 高橋成計
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/11/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


nice!(5)  コメント(2) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 5

コメント 2

史学会帰り新参

7年前に鳥越城や周辺の城に行きましたが、比高200Mを越える山城にビビったのと(笑)、時間がなかったので麓を通りながら岩倉城は諦めました。当時の「岩倉城趾案内図」の写真を見ましたが、これが力作かどうかは自分には分からないです。今の案内図は違うかもしれないですね。
当時も整備されていたみたいでした。無名な城ですが遺構のよく残る隠れた名城ですね。
by 史学会帰り新参 (2019-10-25 23:18) 

アテンザ23Z

>史学会帰り新参さん
高さもありますが、かなり奥にある山なので、城に到達するまでかなり時間がかかりますから、きちんと時間を確保しないと行くのが難しい城ですね。
県はおろか市でさえも史跡指定していないのに、地元の人達の努力だけでこれだけしっかり整備しているのも素晴らしいですね。
by アテンザ23Z (2019-10-26 08:05) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント