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日谷城(石川県加賀市) [古城めぐり(石川)]

IMG_4358.JPG←二ノ郭内側の横堀
 日谷城は、檜屋城とも記載され、加賀一向一揆・越前朝倉氏・織田氏がそれぞれ戦術拠点とした城である。応仁・文明の大乱(1467~77年)の頃、遠来の武将に対抗するため檜屋義久を中心に一向衆が日谷城を築城したと考えられている。1555年、越前朝倉氏の老練の猛将朝倉宗滴の加賀侵攻の際には、一揆衆は日谷城に立て籠もって抗戦したが落城した。以後、朝倉氏の持ち城となった。1567年、朝倉義景の家臣で北の庄城主堀江景忠が一向一揆に通じて謀反を起こすと、朝倉氏と一向一揆勢との抗争となったが、朝倉氏の元に身を寄せていた足利義昭の調停により和議を結び、その条件として一揆方の松山城及び朝倉方の大聖寺城・黒谷城・日谷城は焼却廃城となった。1575年、織田信長は3万6千の軍勢で越前一向一揆を殲滅し、更に加賀に乱入して江沼・能美2郡を制圧し、大聖寺城・日谷城を修復して戸次(別喜)右近広正・佐々長穐(ながあき)・堀江らの将を入れて、加賀一向一揆討伐の拠点とした。しかし広正らは加賀一向一揆の討伐に失敗した為、尾張に召還されたと言う。

 日谷城は、大聖寺温泉背後の標高110m、比高100m程の山上に築かれている。城跡は現在、日谷城址里山自然苑となっており、散策路が整備されてる。山頂に瓢箪型の主郭を置き、周囲に二ノ郭、三ノ郭を廻らし、北尾根には北郭を設けている。二ノ郭・三ノ郭は内側に浅い横堀を穿ち、北郭も外周を横堀で防御している。特に北郭の横堀は、北郭の南側の腰曲輪から見下ろせる位置に構築されており、上方の北郭と側方の腰曲輪と、両方から攻撃を受けるように設定されている。またこれらの曲輪はいずれも切岸が大きく、曲輪間の高低差が大きい。また北郭の尾根の基部には浅い堀切が穿たれている。更に北西尾根の薮をかき分けて段曲輪群を降っていくと、薮が途切れた先に綺麗に薮払いされた西出曲輪が、まるで隠れ里のように広がっており、その基部にはやはり堀切が穿たれている。日谷城は、それほど技巧的ではないが、高低差の大きい縄張りで、見応えがある。横堀の多用という点では、松山城と同一の築城思想が感じられる。
堀切と西出曲輪→IMG_4410.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.277631/136.335461/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


織豊系城郭とは何か: その成果と課題

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