赤石城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]
←腰曲輪跡の畑
赤石城は、那波氏の家臣赤石左衛門尉が築いたとされる。赤石城は2つあり、後に伊勢崎陣屋となった地にも赤石城があった。赤石氏は、最初はこの飯土井の赤石城に居たが、後に伊勢崎の赤石城を新たに築いて移ったと言われている。但し城の名が同じ為、後世に歴史の混同などがあり、詳細は不明であるらしい。
赤石城は、神沢川とその支流に挟まれた段丘南端に築かれた城である。『日本城郭大系』の縄張図によれば、南北に連なる4つの曲輪で構成されていたらしい。その形態は、昭和20年代前半の航空写真でも確認できる。北西に突出した北郭があり、その南に土塁と空堀・腰曲輪で囲まれた方形の主郭、更に南にニノ郭・三ノ郭と置かれていたらしい。現在城内は宅地化で改変され、遺構は完全に湮滅している。わずかに主郭部の切岸が段差となって民家裏に残るほか、主郭東側の腰曲輪が畑となって残っているだけである。台地の形状も、周りの河川改修に伴って変えられてしまっている。主郭北側を東西に貫通する車道脇に、城址標柱が立っている。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.355720/139.179375/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
赤石城は、那波氏の家臣赤石左衛門尉が築いたとされる。赤石城は2つあり、後に伊勢崎陣屋となった地にも赤石城があった。赤石氏は、最初はこの飯土井の赤石城に居たが、後に伊勢崎の赤石城を新たに築いて移ったと言われている。但し城の名が同じ為、後世に歴史の混同などがあり、詳細は不明であるらしい。
赤石城は、神沢川とその支流に挟まれた段丘南端に築かれた城である。『日本城郭大系』の縄張図によれば、南北に連なる4つの曲輪で構成されていたらしい。その形態は、昭和20年代前半の航空写真でも確認できる。北西に突出した北郭があり、その南に土塁と空堀・腰曲輪で囲まれた方形の主郭、更に南にニノ郭・三ノ郭と置かれていたらしい。現在城内は宅地化で改変され、遺構は完全に湮滅している。わずかに主郭部の切岸が段差となって民家裏に残るほか、主郭東側の腰曲輪が畑となって残っているだけである。台地の形状も、周りの河川改修に伴って変えられてしまっている。主郭北側を東西に貫通する車道脇に、城址標柱が立っている。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.355720/139.179375/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世崖端城
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