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津久毛橋城(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_7168.JPG←主郭
(2019年11月訪城)
 津久毛橋城は、南北朝時代に南朝の将北畠顕信が立て籠もった城である。古くは平安末期に、大軍を率いて奥州藤原氏を討伐した源頼朝が、松山道を経てこの地、津久毛橋に至ったと言う(『吾妻鏡』)。1189年8月21日のことである。この時、頼朝に付き従っていた梶原平二景高(梶原景時の次男)は、
  陸奥(みちのく)の 勢は御方に 津久毛橋 渡して懸けん 泰衡が頸
と詠み、頼朝に献じたと伝えられる。南北朝時代には、奥州南朝軍と北朝軍の決戦の地となった。『鬼柳文書』等の古文書によれば、1342年に北畠顕信率いる南朝勢は、「三迫・つくもはし(津久毛橋)・まひたの新山林、二迫のやハた(八幡)・とや(鳥谷)」の5ヶ所に「たて」(楯、城郭のこと)を築いて陣を張った。対する北朝方の奥州総大将石塔義房は、向城として鎌糠城(大原木楯か?)を築いたと言う。この地で対峙した両軍は、三迫合戦と呼ばれる大会戦を行った。北朝方は南朝の諸城を次々と攻略し、最後の拠点となった津久毛橋城を攻め落として南朝勢を討ち破り、敗れた顕信は出羽方面に逃れた。

 津久毛橋城は、比高わずか20m程の小丘に築かれている。登道が整備され、主郭は公園化されているので訪城は容易である。眼前の平地の向こうには、北朝方の本陣鎌糠城であった可能性のある大原木楯がそびえている。津久毛橋城の東の尾根は削られて湮滅しているので、縄張りの全容は不明であるが、上州松山城の様な、段々に曲輪群を築いた小型の平山城である。段は畑などになっているが、形状はよく残っている。頂部の主郭は東西に細長い曲輪で、あまり広くはないので、多数の兵を籠めることはできない。前述の通り東尾根は湮滅しているが、ここに堀切が穿たれていた可能性もある。
 南朝方の本陣としては随分と小規模であるが、それは周辺諸城と連携して「面」として戦線を構築していたからであろう。ちょうど越前で、北朝方の大将斯波高経が足羽七城の連環城砦群で新田義貞の猛攻に耐え凌いだのと同じである。しかし、周辺諸城が攻略されて孤立してしまうと、この小城ではひとたまりもなかった。
 尚、主郭には、源義経の北行伝説の立役者杉目太郎行信の供養碑が立っている。
南斜面の腰曲輪群→IMG_7149.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.822842/141.036741/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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