SSブログ

安土城 その2(滋賀県近江八幡市) [古城めぐり(滋賀)]

IMG_7405.JPG←馬場平腰曲輪の3段石垣
(2019年12月訪城)
 15年ぶりに安土城を再訪した。15年前の私はまだ山城初心者だったため、観光ルート以外の遺構を全く見逃していたので、その他の遺構を踏査した。

 今回踏査したのは、東尾根の曲輪群である。こちらの散策路は東門道と呼ばれ、何故か城郭関係のサイトでは、このエリアの遺構には触れたものはほとんどない。私は南東山裾の蓮池付近の曲輪群を追っていったら、東尾根曲輪群の先端に当たる御茶屋平下の腰曲輪群にたまたま行き着いた。よく調べたら、弘法大師堂の脇からちゃんと登道があった。この道を登ると東門跡の桝形虎口に至る。その上が前述の御茶屋平と言う曲輪で、外周は石垣で囲まれ、角は算木積みとなっている。その南下方のいくつもの腰曲輪群にも石垣が随所に見られる。これらはいずれも、復元整備の手が入っていない古態をとどめた石垣群で、城の中心部の石垣と比べると、積まれている石がやや小ぶりで、石垣の高さもそれほど高くない。中には、鉢巻石垣の様な低いものもある。

 ここから西に向かってしばらく登っていくと、馬場平という東西に長い曲輪があり、その東のピークには神様平という曲輪がある。ここも多数の石垣群がある。ただ南側の石垣はあまり高さがなく、しかも3段の腰曲輪に石垣を築いて、3段石垣としており、ちょうど金沢城の辰巳櫓の3段石垣の様である。

 この馬場平には、安土城築城以前に六角氏の重臣目賀田氏が守っていた目賀田城が築かれていたと言われる。ただこの話は『日本城郭大系』にも『図説 中世城郭事典』にもなく、話の出元がよくわからない。この話が本当だとして、安土山のピークではなく、わざわざ東の尾根のピークに城を築いたことは、六角氏の本拠観音寺城に対して独立した城砦として築いたと言うよりも、観音寺城の西麓を抜ける街道を監視し押さえるために築いた、関所的な役割を負っていたと考えられる。

 馬場平から奥は、立入禁止となっている。この後は一旦下山し、大手道から中心部の遺構を回ったが、15年前と同様、三ノ丸や八角平は立入禁止となっていた。

 今回、再訪してわかったが、安土城は外周部の腰曲輪に至るまで、おびただしい数の石垣を築いた、全曲輪総石垣の城郭であったことがわかる。しかし縄張り的には、戦国後期の中世城郭の延長線上にあることも明らかである。よく信長も安土城も革命的と謳われるが、実際にはそれまでの歴史の延長線上にあり、過大評価することは危険である。それは、これらの埋もれた遺構群を見ると実感できる。ただ、中央政権の権力者としてこれまでの城にはない規模で石垣を構築し、権勢の象徴としての城にその役割を大きく変質させたのも確かである。いずれにしても、古いたたずまいを残した古色蒼然とした石垣を見るなら、東曲輪群がオススメである。
御茶屋平の石垣→IMG_7337.JPG
IMG_7368.JPG←御茶屋平石垣の算木積み
東門の桝形虎口→IMG_7388.JPG
IMG_7302.JPG←蓮池曲輪群の石垣・虎口

 場所:【馬場平】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.154565/136.143039/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


織豊系城郭とは何か: その成果と課題

織豊系城郭とは何か: その成果と課題

  • 出版社/メーカー: サンライズ出版
  • 発売日: 2017/04/08
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 5

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント