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百々城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN2351.JPG←三ノ丸の遠望
(2020年2月訪城)
 百々(どど)城は、鶴城とも言い、奥州探題大崎氏の庶流百々氏の居城である。百々氏は、大崎氏5代満持の弟高詮を祖とする一族で、1536年の大崎氏天文の内訌の際には、大崎義直方として百々弾正少弼直孝の名が見える。天正年間(1573~92年)には大崎義隆重臣の百々氏5代左京亮隆元が城主であった。1588年の大崎合戦では、隆元は師山城に籠もって伊達軍と争ったと言う。1590年の奥州仕置により大崎氏が改易となり、葛西大崎一揆を経てこの地が伊達領となると、1591年、亘理元宗が亘理城から百々城に移封となり、1593年には元宗は更に涌谷城に移り、亘理氏の家臣長谷修理亮景重が百々城主となった。寛文年間(1661~73年)に長谷氏も涌谷城下に移ると、百々城は廃城となった。

 百々城は、比高30mの丘陵南端に築かれている。南に開いたU字状になった尾根を利用して築かれた城で、間の谷間には城主・家臣団の居館群や馬場があり、谷の中心に大手道が通っていた。現在はあちこち山が削られて地形がやや変形している様だが、概ねの遺構は残っている。城の中心はU字尾根の西側尾根にあり、北から順に本丸・二ノ丸・三ノ丸と並んでいる。妙見社の脇から登った先が三ノ郭の上段で、畑になっている。その南には1~2m程の段差で区切られた下段の平場があるが激薮で進入困難である。一方、三ノ郭の北にはニノ郭があって、畑と竹林になっている。その奥に主郭があり、やはり竹林になっている。少々薮っぽいが踏査は可能である。以前は畑であったらしいが、主郭内にはコンクリートの深い大穴がある。『日本城郭大系』によれば、太平洋戦争中に製錬所が建てられていたらしいので、その跡なのだろう。主郭の北端はやや高くなっており、櫓台があったかもしれない。その北には細尾根が続き、尾根の先端に物見台がある。その先は採石で尾根が消滅している。東側の尾根は、民家の裏なので踏査できなかったが、遠目に平場があって畑になっているのが見えた。
 百々城は、堀切・横堀がなく、小規模な段差・切岸だけで区画された曲輪群が連ねられている。虎口構造などにも取り立てて言うべきことがなく、江戸前期まで使われた城にしては縄張り面での特色が少ない。居館機能を優先した城だった様である。
 尚、城内に妙見神社があるのが不思議である。百々氏は源氏だから八幡神社ならわかるが、妙見社といえば下総の名族千葉氏に所縁が深い社である。奥州千葉氏の一族もこの地に関係したことがあったのだろうか?
本丸後部の土壇→DSCN2380.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.583969/141.069077/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


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