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向田城(石川県七尾市) [古城めぐり(石川)]

DSCN7725.JPG←北斜面の腰曲輪群
(2020年11月訪城)
 向田城は、南北朝史に現れる金頸城に比定されている。金頸城は、南北朝史の主軸を成す『太平記』には現れず、合戦に参加した武士の軍忠状に現れる。室町幕府の内訌「観応の擾乱」後の1353年8月28日、北朝方の能登守護吉見氏頼は、能登島の向田を本拠とする南朝方の長胤連討伐の為、嫡男修理亮詮頼を大将とする軍勢を能登島に侵攻させた。胤連の下には、将軍足利尊氏に反抗する元越中守護桃井直常の弟桃井兵庫助が能登での南朝勢力拡張のため派遣されていた。翌29日、吉見勢は胤連の館を焼き払い、胤連は金頸城に籠城した。同年9月、吉見勢は「一口駒崎」に陣取り、金頸城を包囲した(『得田文書』)。その後の経過は不明であるが、胤連はこの一連の合戦で討死したと推測されている。1355年、長胤連の一族家人が蜂起したため、3月17日、吉見氏頼は再び詮頼を大将に軍勢を能登島に派遣した。同月20日、胤連の残党は金頸城に追い込まれたが、長一族は激しく抵抗し、3ヵ月後の6月14日夜、ようやく金頸城は落城し、長一族は壊滅した(『天野文書』)。その後の金頸城(向田城)の歴史は不明だが、現在残る遺構から戦国期まで使用されたものと推測されている。

 向田城は、七尾北湾に突き出た標高44mの城ヶ鼻と呼ばれる岬の上に築かれている。岬の基部には現在県道257号線が貫通している。西側の県道沿いに駐車場があり、以前はそこに城の解説板があったらしいが、現在はなくなっている。岬の上にあるのが主郭であるが、登道はないので、急な斜面を無理やり登攀した。頂部に狭小な主郭があり、北側の斜面に腰曲輪群を築いている。腰曲輪群の北辺は尾根が天然の土塁として張り出しており、腰曲輪群は2つの尾根の間の谷状の部分に築かれている。また主郭の南東側にも帯曲輪があり、竪堀らしい地形も確認できる。主郭の南には細尾根が伸びている。一方、県道を挟んで南の尾根には三重堀切が穿たれ、そこから東斜面には三重竪堀が落ちている。その南に伸びる尾根の先にも外郭の曲輪があるらしいが、時間の都合で踏査しなかった。

 向田城は、遺構はよく残っているが、全体に薮が多く、特に主郭を中心とする岬の遺構は確認が大変だった。かつてあった解説板では、はるか南の尾根の先まで城域だったとしているようだが、『能登中世城郭図面集』では遺構とは認定していない。どうも能登の城は、神和住城と言い、天堂城と言い、実際の遺構が過去に作られた縄張図と合わない例があり、判断に苦しむ。
南尾根の三重竪堀の一部→DSCN7761.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.141914/137.009007/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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