SSブログ

熊木城(石川県七尾市) [古城めぐり(石川)]

DSCN7618.JPG←北郭の畝状竪堀
(2020年11月訪城)
 熊木城は、七尾城主で能登守護畠山氏の家臣熊木氏の居城である。一説には、鎌倉初期に長氏の祖長谷部信連が居城したと言い、その後信連は穴水へ移ったと言う(『長家伝』)。一方、南北朝期には熊木荘を支配した熊木左近将監の居城となったとされる。1566年に畠山義綱が家臣団によって追放されると、熊木氏も義綱に従って能登を離れたと言う。しかし熊木氏の一族は熊木荘に残留していたらしく、1576年に上杉謙信が七尾城を攻撃した際、長綱連や熊木氏以下の畠山家臣団が七尾城に籠城している。上杉軍は富木城穴水城と共に熊木城を攻め落とし、三宝寺平四郎・斎藤帯刀・内藤久弥・七杉小伝次を熊木城に配した。翌77年3月、上杉謙信が一旦帰国すると七尾城方は反撃に転じ、同年5月には七尾の将兵を引き連れた長綱連が熊木城を囲んだ。甲斐荘家繁が謀略をもって斎藤氏を降し、七杉氏を自害させ、内藤・三宝寺氏を降して誅殺し、熊木城には仁岸石見を守将として置いた。閏7月、謙信が再び能登に出征すると、穴水城を攻撃していた綱連は七尾城へ引き返し、殿軍を熊木兵部が受け持った。兵部は七尾落城後、松波城に退いたが、9月に上杉勢と戦って討死した。一方、能登を制圧した上杉氏に服属した一族もいたが、1578年の謙信急死により能登の上杉勢力が弱体化すると、その混乱の中で熊木氏は滅亡したと推測されている。

 熊木城は、熊木川北岸の比高90m程の丘陵上に築かれている。100m程離れた北郭・南郭の2つの城域から構成されており、南郭が本城で、北郭が出城と推測される。南東麓から散策路が整備されているので、登るのは容易である。ただ、この城への登道は最初がわかりにくい。民家脇を北北東に伸びる農道を真直ぐ行ってしまうと、全く城から離れたところに行ってしまう。農道入口を民家の手前ですぐに左に入り、民家と民家の間を北側に入っていくのが正解である。畑の脇を抜けて、散策路を山林の中に入っていくと、最初に高台になった平地がある。この高台の入口は土塁を築いた虎口になっているので、ここも城下の一郭であったことがわかる。その先に行くと散策路は二股に分かれ、左側の「きゅう坂」を行くと南郭へ、右側の「だんだら坂」を行くと北郭へ到達する。
 北郭は単郭の砦で、円形の主郭を中心に、北東側に土橋を架けた堀切を穿ち、北斜面には畝状竪堀を築いている。この畝状竪堀は薮払いされているので形状がわかりやすい。主郭の南側には横堀を穿ち、北西側には腰曲輪を築き、南西に大手虎口を設けている。また主郭背後の堀切からやや離れて、もう1本北端の堀切を設けている。
 南郭は、大きく南北2郭に分かれ、主郭は周囲に土塁を築き、背後には二重堀切を穿っている。主郭背後の切岸は北郭のものより大きく、こちらの方が本城として防御を固めていたことがわかる。主郭の南側には空堀・竪堀で固めた馬出しが設けられ、やや変則的な枡形虎口が形成されている。そこから南西に降ると舌状の二ノ郭がある。二ノ郭の南西端には小掘切が穿たれている。南側は薮の多い自然地形で、ここにも畝状竪堀があるとされるが、よくわからなかった。

 熊木城は、規模的には土豪の築いた小城砦の域を出ないが、馬出しや畝状竪堀など、上杉氏による改修と思われる痕跡を残している。
北郭南側の横堀→DSCN7638.JPG
DSCN7658.JPG←南郭の二重堀切の内堀
南郭の馬出し→DSCN7677.JPG
DSCN7595.JPG←高台入口の虎口

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【南郭】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/37.129751/136.844577/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【北郭】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/37.130881/136.844963/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 4

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント