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鳥海柵(岩手県金ケ崎町) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5078.JPG←二ノ郭から見た堀と主郭
 鳥海(とのみ)柵は、奥六郡を支配した俘囚長安倍氏が築いた12柵の一であり、12柵の内で唯一場所が確定している城柵である(他の柵はいずれも擬定地である)。安倍頼時の3男宗任が鳥海柵の城主であったと伝えられる。前九年の役では、陸奥守・鎮守府将軍源頼義が津軽の安倍富忠を調略すると、頼時は富忠説得のため津軽に向かうが、富忠勢の攻撃を受けて深手を負い、本営の衣川に戻る途次、鳥海柵で死去した。頼時の跡を継いだ貞任は、引き続き頼義率いる国府軍と交戦し、黄海の戦いで国府軍に大勝した。しかしその後、頼義は出羽の豪族清原氏を味方につけることに成功し、清原氏の大軍と連合したことで形勢を逆転した。頼義は安倍氏の本拠地衣川を攻略し、貞任・宗任兄弟は鳥海柵に後退し、更に厨川柵に撤退して立て籠もった。しかし厨川柵も源氏・清原氏連合軍に攻略されて安倍氏は滅亡し、前九年の役は終結した。宗任は捕えられて京に送られた。その際、京の公卿の一人が田舎者は梅の花を見たこともないだろうと侮って、梅を一枝折って「これは何という名の花か」と差し出したところ、宗任は「我が国の 梅の花とは 見たれども 大宮人は いかがいふらむ」と和歌で返したため、その教養や風流が高く評価されたと言う。その後、宗任は九州へ配流された。
 鳥海柵は、鎮守府胆沢城に近く、当主頼時が亡くなった地であることから、安倍氏にとって最重要拠点であったと考えられている。

 鳥海柵は、胆沢川北岸の比高10m程の台地先端に築かれている。現在国指定史跡となっているが、明確な遺構はほとんどない。台地を深く刻んだ浸食谷をそのまま堀とした要害で、昭和20年代の航空写真を見ると、西側の台地基部に1本の大きな空堀を穿って分断していたが、ちょうど堀付近を東北自動車道が貫通して破壊され、残った堀も埋め立てられて水田となっている。結局現在残っているのは地勢だけという状況である。堀の谷を越えた北側の台地も二ノ郭があったらしく、前述の航空写真では北側から西側にかけて堀らしい跡が確認できるが、現在はすべて破壊されている。解説板の他、主郭先端部には大きな城址看板が立っているものの、表面観察上はなにもない水田で、残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.188053/141.114771/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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