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衣川城館群(岩手県奥州市) [古城めぐり(岩手)]

 奥州藤原氏の首府として繁栄した平泉から衣川を越えて北側に広がる平地には、安倍氏時代から奥州藤原氏時代に築かれた城館群がある。新型コロナ第5波の猛威が収まってきたのを見計らって訪問した。

<接待館>
DSCN4175.JPG←東側に残る堀跡
 接待館は、奥州藤原氏の時代に3代秀衡の母(安倍宗任の娘と伝えられる)の居館であったとも、平泉府の迎賓館であったとも推測されている。
 接待館は中尊寺から衣川を隔てた北側に位置し、南は衣川に面し、西は関道に接している。発掘調査の結果、東西110m、南北60m余りの広大な館で、大規模な堀と二重の土塁で囲まれた館であったと言う。平泉と同時代の12世紀の遺跡であることが判明している。現在は、周囲より1~2m程高い微高地となっており、外周の一部に堀跡らしい跡が残る。内部はただの原っぱになっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.006888/141.099236/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

<並木屋敷>
屋敷跡の現況→DSCN4213.JPG
 並木屋敷は、1045年頃の安倍氏時代の政庁であったと考えられている。俘囚の長安倍頼時・貞任父子の時代、この一帯が本拠とされたが、一族の主な居住地は衣川の西側で、東には政庁や家臣団の居住地があったらしい。1062年9月、貞任が撤退するまでの18年間は安倍氏の政庁で、翌63年から1083年までの20年間は安倍氏滅亡後に奥六郡を支配した清原氏3代の政庁もしくは居館であったと言われる。清原氏時代以降、並木屋敷は衣川柵と称されるようになったが、安倍氏時代には柵は不要であったと言う。
 並木屋敷は、現在はほとんどが畑、一部が民家となっており、遺構はない。道端に解説板が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.009039/141.091297/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

<小松館>
DSCN4197.JPG←館跡の現況
 小松館は、安倍貞任の叔父である僧良照の居館と言われる。良照は、1062年8月に磐井の小松柵において源頼義・清原武則連合軍を迎え撃った。安倍氏滅亡後は荒廃していたが、1366年に葛西氏の家臣破石氏がここに館を建てて住み、1590年の葛西氏改易と共に滅亡するまでこの地を支配したと言う。
 小松館は、衣川西岸の段丘上にある。かつては西と南に小成沢の崖があり、川が刻んだ断崖で囲まれた要害地形であったが、館の西側に東北自動車道が建設されたため、沢は埋められ、北部にあった門跡も破壊されたと言う。現在は、衣川に面した田んぼとなっていて、地勢以外は残っていない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.009539/141.088057/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

<琵琶館>
館跡の現況→DSCN4203.JPG
 琵琶館は、安倍貞任の庶兄、成道の居館と伝えられる。衣川曲流部にその支流の小河川で挟まれた半島状台地に位置している。館跡は現在、全て水田に変貌しており、明確な遺構は残っていない。車道の入口に標柱が立つ。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.005687/141.088958/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

<泉ヶ城>
DSCN4210.JPG←城跡の段丘と城址碑
 泉ヶ城(和泉ヶ城)は、奥州藤原氏3代秀衡の3男泉(和泉)三郎忠衡の居城である。衣川曲流部に琵琶館に相対するように位置し、川で囲まれた島状台地の上にほぼ三角形の段丘がそびえている。段丘内は民家と水田で、内部探索はできない。周囲を5m程の切岸で囲まれた地勢は、いかにも城跡という感じである。段丘東下の小道脇に土地の持ち主が自費で建てたという城址碑が立つ。
 尚、俘囚の長安倍氏が築いた12柵の一、業近柵がここにあったとも推測されている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.005020/141.091125/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

<山口館>
館東側の切岸→DSCN4221.JPG
 山口館は、現地解説板では単に「館」と表示されている。安倍頼時・貞任父子の居館跡と伝えられている。安倍氏は、頼時の祖父忠頼の頃から上衣川の安倍館を本拠としていたが、頼時の代にこの地に本拠を移したと言う。その時期は遅くとも1046年以前と推測され、1062年9月に貞任が鳥海柵に撤退するまで、前九年合戦の中心舞台となった。
 山口館は、小松館のすぐ北西に隣接するように築かれている。東と北を切岸で囲まれており、いかにも要害地形であるが、館跡は民家と水田になっていて、明確な遺構はない。ただ、解説板が立っている場所は土塁跡であるかもしれない。また館跡西側の車道は、堀跡と思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.010522/141.086769/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

<衣川関>
DSCN4226.JPG←関跡
 衣川関は、802年に胆沢城が築かれ、東国の俘囚4千人が胆沢の柵戸に配置された頃に設置されたと伝えられる。当初は胆沢郡最南端の宝塔谷地にあったらしいが、1046年頃に胆沢郡司安倍頼時がこの地に本拠を移した際、関所もこの地に移したと言う。沢筋が刻んだ絶壁と衣川によって作られた要害地形で、「一人で険を拒めば万夫も進む能わず」と謳われる程の隘路であった。東北自動車道脇の狭い側道の奥にあり、現在は擬定地に解説板が立つ。
 城館ではないが、この記事の中に記載しておく。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.005087/141.086812/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

<北館>
北館桜→DSCN4233.JPG
 北館は、安倍氏一族の居館の一つと伝えられている。しかし東北自動車道建設に伴って行われた発掘調査では、遺跡の主体は縄文時代のものであり、古代としては平安時代のものと推測される住居跡が検出されただけである。館跡は、民家と水田になっている。尚、北館の中には、1300年頃に南蘇坊という行脚僧が植えたと伝わる北館桜がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.013357/141.089387/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

<室の樹屋敷>
DSCN4270.JPG←屋敷跡
 室の樹屋敷は、1160年頃に奥州藤原氏3代秀衡の母が営んだ植物園の跡と伝えられる。また1187年2月に平泉に落ち延びた源義経主従が、この屋敷に居住したとも言われる。
 室の樹屋敷は、現在公園化され、池跡や何らかの礎石らしい石が散在している。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.011156/141.100245/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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