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胆沢城(岩手県奥州市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN4558.JPG←南門付近の外郭
 胆沢城は、坂上田村麻呂が造営した古代城柵である。桓武天皇は東北地方を制圧するため蝦夷征討を目論み、789年、紀古佐美を征東将軍に任じて胆沢の地に侵攻させた。しかし巣伏の戦いで族長アテルイとモレに率いられた蝦夷軍に大敗した。その後の再征を経て、797年に田村麻呂を征夷大将軍に任じて3度目の遠征をさせた。そして平定した胆沢の地に、802年に朝廷軍の前線基地として築かれたのが胆沢城である。同年、アテルイ・モレが降伏し、ようやく蝦夷を平定した。808年には、国府多賀城から鎮守府が分離されて胆沢城へ移され、鎮守府胆沢城が成立した。その後、前九年の役・後三年の役の頃まで鎮守府として機能したが、奥州藤原氏が平泉に本拠を構えた頃には形骸化したものと推測されている。

 胆沢城は、北上川と胆沢川の合流点南西の台地上に築かれている。一辺約670mの方形のプランを持つ広大な城柵で、外郭・内郭から構成されている。現在はほとんどが水田となっているが、内郭と南に伸びる南大路付近は国指定史跡として復元整備されている。この城は基本的には古代律令国家の政庁兼軍団駐屯地であるので、純粋に戦うための城ではない。しかし幅2.4m、高さ3.9m、総延長2.7kmの築地塀を外周に廻らして要所には櫓台を築き、周囲には大溝を設けていて、そこそこの防御力は持っていたと思われる。南門からまっすぐ北に伸びる南大路の先には政庁である内郭があるが、胆沢城ではその前面にもう一つの門、政庁前門が築かれていた。これは他の東北古代城柵では見られない、胆沢城特有の施設だと言う。北端には鎮守府八幡神社が建っている。
内郭の全景→DSCN4603.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.179703/141.134984/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:古代城柵
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