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山口楯(岩手県宮古市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN3410.JPG←三ノ郭から見た主郭群
 山口楯(山口館)は、河北閉伊氏の城と考えられている。詳細は不明であるが、『日本城郭大系』によれば楯の脇、黒森神社の下にあった安泰寺の鐘銘に1365年の年号と共に大旦那として民部太夫源長時の名があり、これが河北閉伊氏の余市員連の後裔と推測されている。また黒森神社に残る獅子頭には「旦那源行康、小笠原左馬助」の名が見え、大旦那が河北閉伊氏の源行康、旦那がこの地の地頭で山口楯主であった小笠原左馬助ということであろうと考えられている。

 山口楯は、黒森山の南の支尾根の先にある標高120mの峰に築かれている。大きく南北に分かれた2つの城で構成されており、ここでは便宜上、上の城・下の城と呼称する。登道があるとは期待していなかったので、登城時は南東の車道脇から適当に斜面に取り付いて、見つけた獣道を辿って登ったが、降りる時に城までの道があるのを見つけた。南東の谷地にある畑の北沿いに切通し状の道があり、それを辿っていけば上の城まで到達できることが後でわかった。
 上の城は、山頂に3段の曲輪で構成された主郭群を置き、東に舌状の二ノ郭、南に三ノ郭を配置している。主郭最上段は三角形の小さい平場で、櫓台であったと思われる。二ノ郭とは切岸だけで区画されているが、三ノ郭とは腰曲輪の一部にもなっている堀切で分断している。三ノ郭の南西には堀切を挟んで南郭があり、その南郭も小堀切で東西に分割されている。この他、二ノ郭の外周には腰曲輪群が築かれ、特に北側の腰曲輪は上り勾配で主郭背後まで続いている。主郭背後は、切岸だけで区画された腰曲輪があるだけで、明確な堀切はない。主郭や南郭の南東にも腰曲輪があった可能性があるが、城中心部の脇まで作業林道が通っていて破壊を受けている。しかしそのおかげで上の城は、かなり薮払いされて遺構が見やすくなっている。南郭だけが未整備の薮に覆われている。
 一方、下の城は、上の城 南郭と中規模の堀切で分断されている。この堀切の上に下の城の主郭があるが、劇薮で踏査困難である。主郭の南に広い副郭があるが、遠目に見たところ作業林道で破壊を受けている。副郭の南東に二ノ郭群があるらしいが、三陸自動車道 宮古北ICに繋がる車道が貫通して大きく破壊されている。このため、下の城はほとんど踏査できていない。
 山口楯は、整然とした遺構がよく残り、特に上の城は薮が少なく見応えがある。全体的には、宮城県の鶴ヶ城(御田鳥城)に似ている印象である。
主郭群最上段の櫓台→DSCN3463.JPG
DSCN3491.JPG←北腰曲輪から見た二ノ郭群
下の城の主郭背後の堀切→DSCN3384.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【上の城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/39.655044/141.940033/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【下の城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/39.653573/141.938767/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


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  • 発売日: 2009/12/01
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タグ:中世山城
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