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千徳城(岩手県宮古市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN3559.JPG←北東尾根の堀切と腰曲輪
 千徳城は、閉伊郡の閉伊川流域と宮古湾一帯を本拠とした閉伊氏の庶流河北閉伊氏(千徳氏)の居城である。1324年に鎌倉幕府の裁定によって鍬ヶ崎・笠間両郷の地頭を認められた閉伊余市員連(河北閉伊氏)は、鎌倉末期~南北朝期の頃に笠間館を築いて、河北の守りとした。後の14世紀末頃には、河北閉伊氏は千徳城に居城を移したと考えられている。河北閉伊氏は後に千徳氏と称し、宗家田鎖氏と共に閉伊川流域の2大勢力に成長した。しかし戦国時代になると、南部氏の勢力がこの地に及び、南部氏の一族一戸氏が千徳氏を滅ぼし、新たに千徳城主となって千徳氏を称した。こうして田鎖氏をはじめ閉伊氏一族は南部氏の勢力下に組み込まれていったものと推測されている。天正年間(1573~92年)には一戸(千徳)孫三郎が城主であったが、1592年、孫三郎が豊臣秀吉の朝鮮出兵に従って肥前名護屋城に出陣中に、三戸南部氏によって千徳城は密かに破却された。その後千徳氏は、南部氏にその勢力を警戒され、歴史の表舞台から抹殺されたらしい。

 千徳城は、閉伊川北岸の標高70m程の山上に築かれている。南東尾根先端の出砦に千徳八幡宮があり、その参道脇から城への散策路が整備されている。中心に長円形の主郭を置き、その周囲に腰曲輪を廻らしている。主郭には土塁はないが、段差で南北2段に区画されている。主郭の南には横長の二ノ郭群が置かれている。二ノ郭と主郭との間は、東端部に堀切が穿たれている。また主郭の北東と北西にそれぞれ曲輪群が築かれている。北東の曲輪群は舌状の平場群で、主郭腰曲輪との間に堀切を穿ち、その手前に土塁を築いている。北西の曲輪群は、堀切を兼ねた幅広の鞍部の曲輪を介して三ノ郭が置かれている。三ノ郭の北には、堀切を挟んでV字型に広がった四ノ郭が置かれている。また三ノ郭の西側には舌状の曲輪が築かれ、その先に西尾根を分断する堀切が穿たれている。その西側も出砦とされ、平場群が確認できる。一方、二ノ郭の南東尾根には千徳八幡宮が鎮座する出砦があり、尾根の基部を堀切で区画している。
 以上が千徳城の遺構で、縄張図にない多数の腰曲輪群もあり、遺構は全体によく残っている。しかし、主郭・北東曲輪群など薮払いされて整備されているのは一部の曲輪だけで、その他はあまり整備されていない。特に主郭下段や二ノ郭、三ノ郭西の曲輪などはかなり薮が酷い。そのせいもあってか、なんとなく印象の薄い城であった。
広い主郭→DSCN3730.JPG
DSCN3672.JPG←西尾根の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.638075/141.923296/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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