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笠間館(岩手県宮古市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN3347.JPG←詰城部の曲輪の切岸
 笠間館は、閉伊郡の閉伊川流域と宮古湾一帯を本拠とした閉伊氏の庶流河北閉伊氏(千徳氏)の初期の居城である。閉伊氏は、保元の乱で敗れて伊豆大島に流刑となった鎮西八郎源為朝の子、島冠者為頼を祖とすると言われる。為頼は源頼朝に仕えて、その側近であった佐々木高綱の猶子となり、佐々木十郎行光と名を改めた。そして奥州藤原氏を滅ぼした奥州合戦の軍功により、陸奥国閉伊郡の地頭職を給わってこの地に下向し、閉伊氏を称した。その後一族は、閉伊川流域に勢力を拡大した。鎌倉後期の1290年に閉伊地方最大の土豪であった閉伊光員が没すると、その遺領を巡って閉伊宗家の十郎左衛門尉光頼と光員の子閉伊余市員連が争いを起こし、鎌倉幕府に訴えた。幕府の採決の結果、光頼に閉伊川南岸が、員連に閉伊川北岸の鍬ヶ崎・笠間の所領が認められた(1324年の『田鎖文書』)。鍬ヶ崎・笠間両郷の地頭となった員連(河北閉伊氏)は、鎌倉末期~南北朝期の頃に笠間館を築いて、河北の守りとした。後の14世紀末頃には、河北閉伊氏は千徳城に居城を移したが、その後も笠間館は千徳城の東の守りとして戦国末期まで存続したと言う。

 笠間館は、宮古湾にほど近い閉伊川北岸に築かれている。小丘(館山と呼ばれていた)に2段の郭を造って居館を設け、基部を掘り切って背後の丘陵先端部に詰城を築いた。また居館の南に突出していた細長い丘陵地(横山)に出砦を設けていた。しかし現在は、居館のあった小丘は完全に削り取られて市街地となり、堀切も破壊されてJR山田線が貫通している。詰城は比高50m程の丘陵地に残っているが、東斜面の腰曲輪ははっきりしているものの、肝心の山頂の主要部の曲輪はほとんど自然地形で見るべきものはない。また詰城部は全域が未整備の薮に覆われており、遺構も僅かであることから、無理して登る必要はないだろう。出砦は、横山八幡宮の境内となっていて改変されているので、往時の遺構は明確ではないが、3段程の平場に分かれているのが確認できる。笠間館は全体に遺構が不明瞭で、居館も消滅しており、見所は少なかった。
 尚、横山八幡宮には源義経の北行伝説が残っている。
出砦の横山八幡宮→DSCN3372.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【詰城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/39.642107/141.939089/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【出砦】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/39.638026/141.943703/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世平山城
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