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田鎖城(岩手県宮古市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN3800.JPG←副郭北方にある物見台
 田鎖城は、閉伊氏の宗家とされる田鎖氏の居城である。南北朝後期の永和年間(1375~79年)頃の築城と推測されている。その後田鎖氏は、長沢川を隔てた対岸の松山館主白根氏や折壁館の伊藤駿河、苅屋・和井内両氏など、四隣の土豪たちと戦いを繰り返した。田鎖氏は、庶流の千徳城主千徳氏と共に閉伊川流域を支配する2大勢力となったが、一方で閉伊郡各地に分封された一族は自立して宗家田鎖氏と並び立った。室町~戦国期にかけて南部氏の勢力がこの地に及ぶと、田鎖氏をはじめ閉伊氏一族は南部氏の勢力下に組み込まれていった。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置で南部信直は「南部之内七郡(糠部、遠野、久慈、閉伊、鹿角、岩手、志和)」を安堵されると、田鎖遠江守光好・十郎左衛門光重父子は三戸城に伺候して信直に仕えた。しかし翌91年の九戸の乱の際には、南部氏の家臣桜庭安房の説得にも関わらず、一戸系千徳氏などと共にいずれにも味方せず静観の態度を取った。1592年、田鎖氏が豊臣秀吉の朝鮮出兵に従って肥前名護屋城に出陣中に、南部氏によって田鎖城は密かに破却された。

 田鎖城は、閉伊川とその支流長沢川に挟まれた丘陵の北東端部(比高約60m)に築かれている。現在は城近くを宮古西道路が貫通して改変されているせいもあって、明確な登道が失われているが、国土地理院の1/25000地形図で神社マークが有る東の尾根から直登した。『岩手県中世城館跡分布調査報告書』の縄張図によると、中央の尾根に主郭を置き、北の尾根に副郭、南に二ノ郭を配置していたとされる。この縄張図を参考にして城内を探索したが、「これが城?」というような全くとりとめのない城であった。というのも、土塁や腰曲輪・切岸は所々に見られるが、肝心の中心部の曲輪(主郭・副郭・二ノ郭)が自然地形で、ほとんど明確な普請がされていないのである。その一方で、主郭北側の副郭には明確な物見台が築かれている。主郭の南尾根の先には二ノ郭があり、二ノ郭手前の尾根鞍部は堀切と思われるが、これも造作は明確ではなく、ほとんど自然地形の鞍部である。また中心部の曲輪の背後には堀切がないのに、支尾根には堀切があったりと、全くとりとめのない縄張りである。田鎖氏の居城とされているが、一時的な陣城という趣の城で、なんとも理解に苦しむ。これは後日訪城した、隣接する老木館も同様で、田鎖氏の歴史ともども謎が多い。
二ノ郭手前の堀切とされる鞍部→DSCN3816.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.626177/141.894844/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世平山城
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