御岳の城山(山梨県甲府市) [古城めぐり(山梨)]
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御岳の城山は、甲斐武田氏の支配下にあった御岳衆と呼ばれる国人衆によって警衛されたと推測される烽火台である。御岳衆は、1582年、本能寺の変後の旧武田領争奪戦『天正壬午の乱』の際に徳川方に付いており、御岳の城山も当然徳川方の烽火台として機能していたと推測される。
御岳の城山は、金桜神社の東方で南に向かって突き出た険しい山稜上にあり、天狗社が祀られていたことから天狗山とも呼ばれている。南麓から登道があり(登り口はすこし東の車道脇にある)、それを辿っていくと多数の墓地がある。この墓地には石積が多数築かれており、上の方まで続いている。登道には鎖とロープもあるので、登城に困難はない。登りきったところには、天狗社跡などの2段の平場と腰曲輪らしい平場があり、その上に狭小な主郭がある。主郭の北には、わずかな段差の先に細尾根が伸び、その先に岩塊がある。岩塊には2つの切れ込みがあり、これが『甲斐の山城と館』で堀切とされているものだろう。しかしほとんど自然地形であり、堀切はほんのわずかでわかりにくい。その先には自然地形の尾根が続いている。烽火台なので、数個の平場がある以外に見所はほとんど無い。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.767869/138.559549/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
御岳の城山は、甲斐武田氏の支配下にあった御岳衆と呼ばれる国人衆によって警衛されたと推測される烽火台である。御岳衆は、1582年、本能寺の変後の旧武田領争奪戦『天正壬午の乱』の際に徳川方に付いており、御岳の城山も当然徳川方の烽火台として機能していたと推測される。
御岳の城山は、金桜神社の東方で南に向かって突き出た険しい山稜上にあり、天狗社が祀られていたことから天狗山とも呼ばれている。南麓から登道があり(登り口はすこし東の車道脇にある)、それを辿っていくと多数の墓地がある。この墓地には石積が多数築かれており、上の方まで続いている。登道には鎖とロープもあるので、登城に困難はない。登りきったところには、天狗社跡などの2段の平場と腰曲輪らしい平場があり、その上に狭小な主郭がある。主郭の北には、わずかな段差の先に細尾根が伸び、その先に岩塊がある。岩塊には2つの切れ込みがあり、これが『甲斐の山城と館』で堀切とされているものだろう。しかしほとんど自然地形であり、堀切はほんのわずかでわかりにくい。その先には自然地形の尾根が続いている。烽火台なので、数個の平場がある以外に見所はほとんど無い。
堀切とされる地形→
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.767869/138.559549/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:甲斐武田氏の城郭
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