河窪城(山梨県甲府市) [古城めぐり(山梨)]
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河窪城は、川窪の城山とも言い、甲斐武田氏の一族武田(河窪)兵庫信実が警衛に当たったと伝えられる。信実は、武田信玄の異母弟で、甲斐国河窪村を領して河窪氏を称した。信実は、1575年の長篠合戦で長篠城を攻囲する鳶ノ巣砦を守備していたが、徳川勢の奇襲を受け、防戦に努めたが討死した。その子、新十郎信俊が跡を継いだが、1582年に武田家が滅亡すると信俊は徳川家康に仕えた。1591年に武蔵の地、宮脇に知行地を移されて移住した(武田信俊館)と言う。
河窪城は、武田氏の親族衆が守備するほど、府中防衛上の重要地であったと考えられる。ダム湖である能泉湖の南にそびえる標高約1080mの山上にある。しかし元は標高1146mあったとされ、荒川ダム建設(昭和61年完成)の採石のため昭和末期に大規模に削られてしまった。従って、遺構はものの見事に消滅している。更に現在はその削平された広大な土地にソーラー発電所が建設中で、往時の姿は見る影もなくなっている。かつては堀切も残っていたらしいが、今となっては時の彼方の情景である。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.751676/138.576865/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
河窪城は、川窪の城山とも言い、甲斐武田氏の一族武田(河窪)兵庫信実が警衛に当たったと伝えられる。信実は、武田信玄の異母弟で、甲斐国河窪村を領して河窪氏を称した。信実は、1575年の長篠合戦で長篠城を攻囲する鳶ノ巣砦を守備していたが、徳川勢の奇襲を受け、防戦に努めたが討死した。その子、新十郎信俊が跡を継いだが、1582年に武田家が滅亡すると信俊は徳川家康に仕えた。1591年に武蔵の地、宮脇に知行地を移されて移住した(武田信俊館)と言う。
河窪城は、武田氏の親族衆が守備するほど、府中防衛上の重要地であったと考えられる。ダム湖である能泉湖の南にそびえる標高約1080mの山上にある。しかし元は標高1146mあったとされ、荒川ダム建設(昭和61年完成)の採石のため昭和末期に大規模に削られてしまった。従って、遺構はものの見事に消滅している。更に現在はその削平された広大な土地にソーラー発電所が建設中で、往時の姿は見る影もなくなっている。かつては堀切も残っていたらしいが、今となっては時の彼方の情景である。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.751676/138.576865/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
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