船越御所(岩手県山田町) [古城めぐり(岩手)]
←ただただ平坦な主郭
船越御所は、南北朝時代に奥州南朝方の総帥であった鎮守府大将軍北畠顕家の嫡子顕成が拠った城との伝承が残る。顕成の事績ははっきりしないが、一説には浪岡氏の祖となったと言われ、1347年の霊山城陥落の後、稗貫から船越に流れてきて、1373年に浪岡に移るまで20年余を閉伊氏の一族船越氏の庇護を受けて船越御所で居住したとされる。但し明証があるわけではなく、実際に顕成がいたのかどうかは不明である。
船越御所は、船越湾に臨む比高20mに満たない独立丘陵に築かれている。この丘陵は広く平坦な台地で、周囲を断崖で囲まれている。台地南端に館山八幡宮が建っており、そこから登ることがきできる。船越御所は、主郭とその東に一段低く腰曲輪を配しただけのほぼ単郭の城館である。しかし台地上は全域薮に覆われていて、踏査が大変である。しかも腰曲輪との間を区画する段差がある以外はただ単に平地が広がっているだけなので、半分ほど進んだ所で引き返した。
尚、船越御所の周辺は、東日本大震災の津波で壊滅しており、現在は草茫々の空き地ばかりとなっている。前述の館山八幡宮は、かつては下の平地から見るとかなり高い位置にあったが、現在は神社の近くに防潮堤とその上を通る車道があるので、ほんの数m登るだけで神社に至る。10年以上経過しても震災の影を周囲に色濃く残す城館である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.428246/141.980824/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
船越御所は、南北朝時代に奥州南朝方の総帥であった鎮守府大将軍北畠顕家の嫡子顕成が拠った城との伝承が残る。顕成の事績ははっきりしないが、一説には浪岡氏の祖となったと言われ、1347年の霊山城陥落の後、稗貫から船越に流れてきて、1373年に浪岡に移るまで20年余を閉伊氏の一族船越氏の庇護を受けて船越御所で居住したとされる。但し明証があるわけではなく、実際に顕成がいたのかどうかは不明である。
船越御所は、船越湾に臨む比高20mに満たない独立丘陵に築かれている。この丘陵は広く平坦な台地で、周囲を断崖で囲まれている。台地南端に館山八幡宮が建っており、そこから登ることがきできる。船越御所は、主郭とその東に一段低く腰曲輪を配しただけのほぼ単郭の城館である。しかし台地上は全域薮に覆われていて、踏査が大変である。しかも腰曲輪との間を区画する段差がある以外はただ単に平地が広がっているだけなので、半分ほど進んだ所で引き返した。
尚、船越御所の周辺は、東日本大震災の津波で壊滅しており、現在は草茫々の空き地ばかりとなっている。前述の館山八幡宮は、かつては下の平地から見るとかなり高い位置にあったが、現在は神社の近くに防潮堤とその上を通る車道があるので、ほんの数m登るだけで神社に至る。10年以上経過しても震災の影を周囲に色濃く残す城館である。
南東の腰曲輪→
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.428246/141.980824/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:居館
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