SSブログ

真篠城(山梨県南部町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0533.JPG←見事な畝状阻塞
 真篠城は、天文~永禄年間(1532~70年)に武田信玄の命により構築され、その家臣原大隅守(虎吉)が警護したと伝えられている。後には真篠勇太夫という武士の居所になったと言う。

 真篠城は、富士川西岸の標高259m、比高140m程の丘陵上に築かれている。なだらかな山容で、丘陵南東の中腹まで集落が広がっており、県指定史跡になっているため東中腹に駐車場も整備されており、苦労なく訪城できる(但し、駐車場の場所はわかりにくい)。この城は、甲斐の中世城郭の中でもベスト5に入る、屈指の縄張りを持っている。城の中心にある主郭は、外周を土塁で囲み、東西に見事な枡形虎口を築いている。北面の虎口だけは普通の坂虎口で、北側の腰曲輪に通じている。主郭の外周には腰曲輪が築かれ、東の枡形虎口は、主郭の南に広がる二ノ郭に通じている。二ノ郭の東西には土塁が築かれ、特に西のものは主郭土塁から繋がっている。また主郭の東斜面と北西斜面にも数段の腰曲輪が築かれている。北東には谷地形を利用した大きな竪堀があり、その脇の尾根に曲輪を築いている。竪堀の下は北東尾根の最下段の曲輪に繋がっている。主郭の北斜面の下に北尾根の遺構があり、付け根に小堀切が穿たれ、その先に細尾根の曲輪が続いている。北西の広い腰曲輪の先には細長い舌状の三ノ郭が突き出すように築かれ、土橋の架かった堀切で先端を穿ち、その先に台形状の馬出し郭を置いている。これほど明確な馬出し形状は、なかなかお目にかかれない。中田正光氏の縄張図では、三ノ郭の北斜面に畝状竪堀があるとしているが、私にはわからなかった。また主郭の西尾根下方には段曲輪があり、その先を堀切で分断し、堀切前面に物見状の土壇を築いている。一方、主城部から南に外れた峰に、この城の出色の遺構が残っている。それは類例の少ない畝状阻塞(畝状横堀)で、峰上の平場内を南北に貫通して穿たれている。これを畝状竪堀とする資料もあるが、形態からすれば竪堀ではなく横堀で、畝状阻塞(畝状横堀)とする方が正しい。同様の例は上野松井田城や信濃葛山城に見られる。真篠城のものは、平場上から南斜面に向かって堀を落としており、南側に対する防御を意識していることがわかる。この他、城から南東にやや離れた仲間地区にも連続畝堀があるらしいが、時間切れで未踏査である。枡形虎口や畝状阻塞など、必見の城である。
馬出しと土橋→DSCN0422.JPG
DSCN0485.JPG←主郭東の枡形虎口

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.257000/138.472044/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


山梨の古城

山梨の古城

  • 作者: 岩本 誠城
  • 出版社/メーカー: 山梨ふるさと文庫
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 3

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント