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葛山城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_1748.JPG←主郭~二ノ郭間の二重堀切
 葛山城は、越後の上杉謙信が第2次川中島合戦の対陣の際に築いた巨大城郭である。元は葛山衆と呼ばれる在地土豪落合氏の城砦があったと考えられている。1555年、前年に甲相駿三国同盟を成立させて後顧の憂いをなくした甲斐の武田信玄(当時は晴信)は、信濃国善光寺の別当栗田氏の内部分裂を利用して栗田鶴寿を調略し、善光寺平の南半分を武田氏の勢力下に置いた。これを受けて上杉謙信(当時は長尾景虎)は4月に善光寺平奪回の為に出陣し、横山城に本陣を置いた。一方武田方は3000の増援兵と共に旭山城に立て籠もり、信玄も旭山城の後詰として川中島へ出陣し、犀川を挟んで両軍は対峙した。謙信は、旭山城の動きを封殺するため、旭山城の目と鼻の先にある葛山城を整備・拡大して、落合備中守一族や小田切駿河守幸長らを籠らせた。その効果は絶大で、旭山城は動きを封じられ、旭山城・葛山城の対峙が両軍の作戦計画を大いに掣肘し、両軍共に膠着状態となって、200日に渡る長期対陣となった。この間、両軍共に兵站や士気の低下に苦しみ、駿河の今川義元の仲介で和睦した。この和睦は、武田方の旭山城の破却、上杉氏を頼った北信の国人衆の本領復帰など、特に兵糧確保に苦しんだ武田方に不利なものであったが、信玄はこれを守る気はなく、翌年から水面下で上杉方の切り崩しを図った。その上で1557年2月、雪で上杉勢が出陣できない時期を見計らい、信玄は馬場美濃守信房に命じて大軍で葛山城を急襲させた。武田勢は水の手を断ち、城に火をかけて落城させた。城主落合備中守・小田切駿河守らは奮戦したが、葛山衆の城兵もろとも討死した。上杉方の島津月下斎らは大倉城に撤退した。降伏した葛山衆は、武田氏によって再編成され、長沼城の管理下に置かれた。

 葛山城は、善光寺北西の山塊にそびえる標高812m、比高412mの葛山に築かれている。両雄の激突を制した城だけあって、広大な城域を有した巨大な山城である。城域の中心に主郭を置き、その西側に二重堀切を介して二ノ郭、更に一段低く三ノ郭がある。二ノ郭は更に中間に小掘切を穿って2段に分かれ、三ノ郭も2段の平場に分かれている。二ノ郭・三ノ郭の北側斜面には帯曲輪が何段も築かれている。三ノ郭西側の尾根筋にも段曲輪群が延々と築かれており、ざっと数えたところ、少なくとも19段以上の段曲輪が確認でき、下方に1ヶ所小掘切も穿たれている。一方、主郭の北に伸びる尾根にも曲輪群が延々と連なり、途中堀切や横堀で防御されている。最北の北出曲輪は二重堀切の先にあり、三段ほどに区画された細長い曲輪で、城内で最も広い面積を有し、櫓台らしい土壇も残っている。主郭の東側の尾根は、この城の最も特徴的な空間で、二重堀切を介して東側の広い尾根を切り刻んだ畝状阻塞(連続空堀)が構築されている。笹藪でわかりにくい部分もあるが、6~7本の堀か穿たれている。類似した例は上野松井田城にも見られる。普通には、東尾根からの武田勢の接近を阻止する塹壕であったと解されているが、武田氏による破城の跡とする意見もある。その東に腰曲輪があり、北東の尾根に堀切や竪土塁などの遺構があるらしいが、藪がひどく確認できない。腰曲輪の東の尾根は山道が通っており数本の堀切や竪土塁、腰曲輪などが構築されている。この他、前述の畝状阻塞の南斜面には、多数の帯曲輪や竪堀郡が築かれていて、葛山への登り道から見ることができる。途中には竪堀と連携した木戸口もある。尚、葛山城の曲輪には東の腰曲輪を除き、全く土塁が築かれていないのも特徴的である。
 伝わっている歴史からすると、葛山城はこれらの遺構の大部分を武田勢との対陣の中で短期間に構築したものと推測され、敵前築城の勢いの凄さを思い知らされる。
東尾根の畝状阻塞→IMG_1897.JPG
IMG_1676.JPG←南斜面の竪堀群
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.670966/138.166659/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0


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