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桜城(長野県下諏訪町) [古城めぐり(長野)]

DSCN4822.JPG←主郭南の腰曲輪
 桜城は、諏訪大社下社の大祝であった金刺氏の本城とされている。金刺氏は、金刺舎人を祖とし、科野国造家から分かれた一族と伝わる。平安後期には武士化し、下社秋宮に隣接する地に霞ヶ城を築いて居城とした。金刺盛澄は弓馬の達人として知られ、源頼朝からの出頭の命令に遅れたことで処刑されそうになったが、梶原景時の取り成しで御前で流鏑馬の技を披露し、その技の見事さに頼朝の怒りは解け、鎌倉幕府の御家人となった。建武の新政期には、諏訪大社上社の諏訪氏と共に最後の得宗北条高時の遺児時行を奉じて挙兵し、中先代の乱を起こした。乱が足利尊氏によって鎮圧された後、成長した北条時行が南朝方として活動すると、金刺氏も信濃南朝方の一翼を担った。しかしその後南朝勢力は頽勢に傾き、金刺氏も北朝方の信濃守護小笠原氏に属した。鎌倉末期から室町前期にかけての戦乱の中で、桜城が築かれたものと推測されている。その後、金刺氏は上社諏訪氏との間で対立を深めていき、1449年、遂に上社と下社は武力衝突し、上社勢が下社を攻め、社殿を焼き払う結果となった。その後も両者の対立は続いたが、概ね下社の劣勢であり、衰退の一途を辿った。1483年の上社諏訪氏の惣領家と大祝家との内訌の時には、金刺遠江守興春は大祝継満に味方して挙兵し、上社領を攻撃した。上社勢は桑原氏らが高鳥屋城(桑原城)から討って出て、湯の脇の合戦でこれを討ち破り、興春を討取り、その首を大熊城に2夜晒したと言う。上社勢はそのまま下社に討ち入り、社殿を焼き払った。後に上社の分裂内訌は諏訪頼満によって統一され、1518年、頼満は金刺昌春が籠城していた萩倉の要害(山吹城か?)を攻撃した。萩倉要害は自落し、金刺氏は断絶、没落したと言う。1542年、甲斐の武田信玄が諏訪を制圧すると、翌43年に上原城と共に「下宮の城」を修築した。この下宮の城が桜城のことと考えられている。その後の歴史は不明である。

 桜城は、諏訪大社下社秋宮の北方にある標高880m、比高100m程の丘陵上に築かれている。現在城の主要部は公園化されているが、遺構はよく残っている。主郭の南東下方まで車道が通っており、そこから竪堀の登道を登っていけば、主郭背後に至る。主郭は柵で閉鎖されているので勝手に入ってもよいのか迷うが、地元の人に聞いたら入って大丈夫とのことだったので、遠慮なく入らせていただいた。主郭は土塁のない長円形の曲輪で、南斜面に何段もの腰曲輪を築いている。主郭の西側には腰曲輪1段を挟んで半月型の二ノ郭が築かれている。二ノ郭の付け根から北斜面には、大きな竪堀が落ちている。二ノ郭の西側下方にも数段の腰曲輪が築かれ、その北辺部分にも竪堀が落ちている。一方、主郭の背後の尾根には三重堀切が穿たれ、竪堀が両側に長く落ちているが、笹薮で形状がはっきりしない。三重堀切の後ろには後郭があり、その背後も幅広の堀切で区画している。以上が桜城の遺構で、構造としては比較的単純であり、武田氏による改修の痕跡は三重堀切や竪堀の部分ぐらいにしか感じられない。
二ノ郭から落ちる竪堀→DSCN4855.JPG
DSCN4779.JPG←主郭背後の堀切群

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.079237/138.091471/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世山城
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