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大熊城(長野県諏訪市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1828.JPG←そびえ立つ丘上にある大熊城
 大熊城は、諏訪氏の庶流千野氏の居城と伝えられる。しかし千野氏の本貫地は宮川茅野であり、いつ頃誰がこの地に移ったのかは不明である。元々大熊の地は諏訪大社上社の西隣であるので、諏訪氏一族の有力者が大熊城を築き、後に千野氏がこの地に本拠を移したと考えられている。史料上の大熊城の初見は、1483年の諏訪氏の惣領家と大祝家との内訌の時である。1483年正月8日、大祝継満は惣領家の諏訪政満とその一族を前宮の神殿に招いて謀殺した。その詳細は干沢城の項に記載する。しかし大祝継満は諏訪氏の一家眷属の攻撃を受けて干沢城から高遠へ落ち、惣領を失った上社は不安定な日々を送ることとなった。3月19日、下社大祝の金刺遠江守興春は継満の味方を口実にして上社領を攻撃した。上社勢は桑原氏らが高鳥屋城(桑原城)から討って出て、湯の脇の合戦でこれを討ち破り、興春を討取り、その首を大熊城に2夜晒したと言う。この時の大熊城主は不明。次に歴史に現れるのは1542年の武田信玄の諏訪攻撃の時で、この時には大熊城に千野氏が居たことが知られる。信玄は諏訪氏の家督を狙う高遠頼継や下社勢と結んで上原城の諏訪頼重を攻撃した。大熊城に立て籠もっていた千野入道兄弟は、攻め寄せてきた高遠頼継勢と武田勢の連合軍と戦い、敗れて落城した。諏訪頼重は桑原城に後退して立て籠もったが、間もなく降伏し、甲府に連行されて自刃させられた。これにより諏訪惣領家の直系は滅亡した。その後、諏訪は武田氏と高遠氏に二分されたが、西側を領した高遠氏は間もなく甲州兵の守る上原城を攻め落し、さらに下社を占領して諏訪全域を手中におさめた。しかしすぐに武田氏が頼重の遺児寅王を押し立てて頼重の遺言と称して反撃し、この時千野氏ら諏訪武士の多くが武田氏に味方した。1548年、上田原の戦いで武田氏が葛尾城主村上義清に敗北すると、諏訪郡の西方衆は武田氏に叛乱を起こしたが、鎮圧後に追放され、神氏系の反武田勢力は一掃された。この間、千野靭負尉(ゆきえのじょう)は信玄の信任を得、翌49年3月、有賀の地を与えられた。大熊城は、この頃破却されたと考えられている。

 大熊城は、比高50m程の丘陵上に築かれている。この丘陵は、北面が急峻な斜面となっており、北の平地から見るとそびえ立つ丘の上に城がある。三日月形をした丘陵上の中心に主郭を置き、北西に2つの曲輪、南に3つの曲輪を連ねた連郭式の縄張りで、更に外周に腰曲輪を廻らしている。しかし南の曲輪群に中央を中央道が貫通し、また車道も南北に貫通して、南の遺構は大きく破壊されている。それ以外の城内の曲輪は、いずれも畑となっていて改変を受けている。それでも主郭の切岸と周囲の空堀はよく残り、主郭後部の土塁も健在である。城址標柱と解説板もあり、辛うじて残っている部分だけでも末永く残していってもらいたい。
主郭切岸と空堀→DSCN1840.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.004630/138.104711/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃が語る古代氏族と天皇 善光寺と諏訪大社の謎(祥伝社新書)

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