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高島城(長野県諏訪市) [古城めぐり(長野)]

DSCN2488.JPG←本丸の冠木門
 高島城は、文禄・慶長年間(1592~1615年)に築かれた純然たる近世城郭である。1590年の小田原の役の後、徳川家康が関東に移封となると、その家臣となってこの地を領していた諏訪頼忠も武蔵国奈良梨に移り、諏訪郡には豊臣秀吉の家臣日根野織部正高吉が入った。高吉は当初茶臼山城(高島古城)を居城としたが、1592年に新たに高島城の築城を開始し、朝鮮出兵などを挟んで1598年に足掛け7年の歳月をかけて完成させ、居城を移した。普請にあたってはかなり重い課役を課したと言われ、住民からかなり反感を買っていたらしい。しかし2年住んだだけで1600年5月に病死し、子の吉明が跡を継いだ。同年の関ヶ原合戦の後、天下の権を握った徳川家康は、1601年に日根野氏を下野国壬生に移し、旧領主であった諏訪頼忠の子頼水を諏訪に転封した。頼水は在郷の安定に努めつつ、高島城の整備を進め、現在残る姿となった。以後、高島藩諏訪家歴代の居城となり、藩主は10代を数えて幕末まで存続した。
 尚、『信濃の山城と館』の中で宮坂氏は、「(日根野)高吉は諏訪へ高島城を作りに来たようなもの」「(諏訪頼水が)足かけ12年留守をして(旧領に)帰って来て見ると、目を疑うばかりの城が迎えてくれたことになる」「この高島城ができたのは、日根野高吉だから考えられたことであり、可能であったと言える。仮りに頼忠が11年間留守にしなかったとしたら、この浮城はこの世に出現しなかったであろう」と述べているが、全くその通りである。

 高島城は、諏訪湖南東に築かれた平城で、往時は諏訪湖岸に築かれ、数条の河川に挟まれた難攻不落の水城であったらしい。また縄張りは、天守を備えた本丸の北・東・南の三方に二ノ丸を廻らし、その北に三ノ丸川を挟んで三ノ丸、更にその北に衣之渡川を挟んで衣之渡郭を置き、そこから北に一本道の大手(縄手)を伸ばした連郭式の構造となっていた。また二ノ丸の東には、南ノ丸が置かれた。しかし現在は市街化で本丸以外の遺構はほとんど失われている。近世城郭らしく本丸は総石垣で、要所に折れを設けて横矢を掛け、北と東に水堀を廻らしている。しかし南と西の石垣は失われている。本丸は高島公園となり、天守・櫓・冠木門・塀が復興されている。二ノ丸・三ノ丸は完全に宅地化しているが、堀を兼ねた2本の川筋が残っており、部分的に石垣っぽいものが見られる。また三ノ丸の端には三ノ丸湯跡があり、今でも熱い温泉が湧いている。南ノ丸は諏訪市武道館の敷地に変貌している。高島城は、本丸以外の現存遺構がほとんどなく、なんでこれが続日本百名城になったのか、不思議である。
三ノ丸川と二ノ丸切岸→DSCN2536.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.039097/138.112285/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

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  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/08/01
  • メディア: 単行本


タグ:近世水城
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