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高島古城(長野県諏訪市) [古城めぐり(長野)]

DSCN2406.JPG←主郭の現況
 高島古城は、同時代資料では高島城と言い、また別名を茶臼山城とも言う。近世高島城と紛らわしいので、ここでは高島古城で統一する。諏訪を制圧した甲斐武田氏が、新たな統治拠点とした城である。築城時期は明確ではないが、高島古城が歴史に現れるのは1483年の下社大祝金刺興春の上社侵攻の時である。この年の正月、大祝継満が惣領諏訪政満らを謀殺したことから上社で内訌が巻き起こると、3月19日に興春は継満の味方を口実にして上社領を攻撃して高島古城を占領した。更に上桑原・武津まで侵攻したが、上社勢は桑原氏らが高鳥屋城(桑原城)から討って出て、湯の脇の合戦でこれを討ち破り、興春を討取り、その首を大熊城に2夜晒したと言う。1542年に諏訪を攻略した武田信玄は、重臣の板垣信方を諏訪郡代として上原城に置いたが、1548年の上田原の戦いで武田勢が村上義清に敗北して信方も討死した。この敗戦の結果、府中小笠原氏の諏訪侵入や諏訪西方衆の反乱が起きる事態となり、翌49年正月に高島古城を改修した。そして統治拠点を上原城から高島古城に移し、長坂大炊助を諏訪郡代とし、代官所を南麓の岡村に置いた。以後、高島古城は武田氏滅亡まで武田氏の拠点となり、長坂氏の後は信玄の弟信廉が高島古城主となった。1582年3月に織田信長が武田氏を滅ぼすと、甲斐・信濃諏訪郡を与えられた河尻秀隆は、家臣弓削重蔵を代官として高島古城に置いた。しかしわずか3ヶ月後に信長が本能寺で横死し、旧武田領国の織田勢力が瓦解すると、千野左兵衛昌房が先頭に立って諏訪氏の旧臣を集めて高島古城を奪還し、諏訪頼忠を高島古城に迎えた。ここに40年ぶりに諏訪氏が旧領を回復して自立した。間もなく生起した天正壬午の乱を経て、諏訪氏は徳川家康に臣従した。その後頼忠は千野氏の城館跡に金子城を築き、1584年に金子城に居城を移した。1590年の小田原の役の後、徳川家康が関東に移封となると、頼忠も武蔵国奈良梨に移り、諏訪郡には豊臣秀吉の家臣日根野織部正高吉が入った。高吉は当初高島古城を居城としたが、1592年に新たに高島城の築城を開始し、朝鮮出兵などを挟んで1598年に足掛け7年の歳月をかけて完成させ、居城を移した。以後、高島古城は廃城となった。

 高島古城は、大見山山塊の尾根の南端にある丘陵、茶臼山に築かれている。現在主郭は住宅団地に、二ノ郭は茶臼山配水池が建設され、旧状はほとんど失われている。西側斜面には腰曲輪跡らしい平場も見られるが、はっきりしない。昭和20年代前半の航空写真を見ても、城跡は畑地として全山耕作されており、すでに平場群以外は確認できない。武田氏の重要な当地拠点であったので、遺構が残っていればさぞ凄い城だったろうにと惜しまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.045794/138.122392/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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