千原田古塁(群馬県邑楽町) [古城めぐり(群馬)]
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千原田古塁は、青柳城主赤岩安房守照光の家臣宝田和泉守吉勝が1529年に築いたと伝えられる。そして中野の川島五郎四郎等7騎と共に千原田古塁に置かれたと言う。宝田氏は、永禄年間(1558~70年)には小泉城主富岡氏に属し、中野古城を修築して居城とした。1564年の館林城主赤井氏家中の内乱の際、宝田和泉守勝成が小泉勢として活躍したと言う。
千原田古塁は、藤川の曲流部に突き出た半島状の平地に築かれている。耕地化などでかなり改変されているので往時の縄張りはよくわからないが、半島状平地の基部の南西部の民家裏手の山林内に空堀・土塁が残っている。この空堀は、西端部でL字形に北へと折れており、10m程北に行ったところで堀がなくなり、その先は腰曲輪状の平場となっている。この辺りは、往時のままなのか改変されているのか、判断が難しい。明確な遺構はここだけであるが、遺構が残っているだけでも良しとすべきだろう。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.274682/139.473528/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
千原田古塁は、青柳城主赤岩安房守照光の家臣宝田和泉守吉勝が1529年に築いたと伝えられる。そして中野の川島五郎四郎等7騎と共に千原田古塁に置かれたと言う。宝田氏は、永禄年間(1558~70年)には小泉城主富岡氏に属し、中野古城を修築して居城とした。1564年の館林城主赤井氏家中の内乱の際、宝田和泉守勝成が小泉勢として活躍したと言う。
千原田古塁は、藤川の曲流部に突き出た半島状の平地に築かれている。耕地化などでかなり改変されているので往時の縄張りはよくわからないが、半島状平地の基部の南西部の民家裏手の山林内に空堀・土塁が残っている。この空堀は、西端部でL字形に北へと折れており、10m程北に行ったところで堀がなくなり、その先は腰曲輪状の平場となっている。この辺りは、往時のままなのか改変されているのか、判断が難しい。明確な遺構はここだけであるが、遺構が残っているだけでも良しとすべきだろう。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.274682/139.473528/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世平城
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