小屋城(長野県生坂村) [古城めぐり(長野)]
←大堀切と主郭
小屋城は、日岐城主日岐氏(日岐丸山氏)の支城である。城主は、丸山丹波守と伝えられる。1582年の天正壬午の乱の際、深志城を回復した小笠原貞慶は、筑摩・安曇郡の旧領回復を目指して軍事行動を開始し、8月初旬、日岐氏の拠る日岐城を攻撃した。激しい攻防の末、9月上旬に日岐城は攻略され、この攻防の中で小屋城も落城した。
小屋城は、京ヶ倉西麓の犀川曲流部にある岩尾根に築かれている。東麓の鞍部に京ヶ倉登山道の登り口があり、そこから城への登道がある。大堀切で城域を二分した一城別郭の縄張りとなっている。東のピークに長円形をした主郭があり、北東下に段曲輪、その下方に堀切を穿った土壇を配置している。主郭の西側には大堀切が穿たれているが、片側(北側)だけ二重堀切となった変則的な堀切である。大堀切の西には2つの尾根上の長い曲輪が連なり、その先に小高くなった小ピークがあり、物見台となっている。物見台の周りには腰曲輪が数段築かれている。更にその西に伸びる尾根にも、小堀切と細尾根の平場がある。以上が小屋城の遺構で、万平に置かれた日岐氏の居館を守る砦であったと推測される。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.428146/137.939476/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
小屋城は、日岐城主日岐氏(日岐丸山氏)の支城である。城主は、丸山丹波守と伝えられる。1582年の天正壬午の乱の際、深志城を回復した小笠原貞慶は、筑摩・安曇郡の旧領回復を目指して軍事行動を開始し、8月初旬、日岐氏の拠る日岐城を攻撃した。激しい攻防の末、9月上旬に日岐城は攻略され、この攻防の中で小屋城も落城した。
小屋城は、京ヶ倉西麓の犀川曲流部にある岩尾根に築かれている。東麓の鞍部に京ヶ倉登山道の登り口があり、そこから城への登道がある。大堀切で城域を二分した一城別郭の縄張りとなっている。東のピークに長円形をした主郭があり、北東下に段曲輪、その下方に堀切を穿った土壇を配置している。主郭の西側には大堀切が穿たれているが、片側(北側)だけ二重堀切となった変則的な堀切である。大堀切の西には2つの尾根上の長い曲輪が連なり、その先に小高くなった小ピークがあり、物見台となっている。物見台の周りには腰曲輪が数段築かれている。更にその西に伸びる尾根にも、小堀切と細尾根の平場がある。以上が小屋城の遺構で、万平に置かれた日岐氏の居館を守る砦であったと推測される。
西の物見台→
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.428146/137.939476/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世平山城
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