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日岐城(長野県生坂村) [古城めぐり(長野)]

DSCN7026.JPG←わずかに残る主郭石積み
 日岐城は、信濃の名族仁科氏の一族日岐氏(日岐丸山氏)の居城である。1492年頃に生坂谷に進出して裏日岐に居館を構え、日岐城を築いたと言われる。仁科明盛の2男盛慶は、生坂の丸山氏に入婿して丸山氏を嗣ぎ、、肥後守を称したと言う。盛慶以後、盛高・盛次・盛武など約100年に渡る居城となった。その間、甲斐武田氏が信濃に侵攻すると、武田氏に降り、北信濃の川中島進出の際には道筋の守りを担当した。1582年、武田氏滅亡、織田信長横死後に生起した天正壬午の乱の際、深志城を回復した小笠原貞慶は、筑摩・安曇郡の旧領回復を目指して軍事行動を開始し、8月初旬、日岐氏の拠る日岐城を攻撃した。激しい攻防の末、9月上旬に日岐城は攻略されたが、日岐盛直・耳塚作左衛門尉は日岐大城に立て籠もって抵抗を続けた。翌83年8月、貞慶は、籠城衆を調略してようやく日岐大城を攻略した。日岐盛直・盛武兄弟、耳塚作左衛門尉、穂高盛棟らは一族を引き連れて城を脱出し、上杉氏のもとに逃れたと言う。また別説では盛武は小笠原氏に降って許され、小笠原氏に従って各地を転戦し、1590年に小笠原氏が関東に転封となるとそれに従ってこの地を離れたとも言われる。

 日岐城は、犀川曲流部に西から突き出た標高620mの山上に築かれている。北麓から登道が整備されている。これを登っていくと左手に広い高台が広がっており、『信濃の山城と館』によると大手曲輪とされている。水の手もあるらしいが、薮が多くよくわからない。更に登っていくと、東尾根の鞍部に至る。ここから東に進むと、小ピークの高台(物見曲輪)があり、見張台跡の表示板がある。後部に高台を築いた曲輪の北に、2段の腰曲輪を築いている。逆に西に進むと三ノ郭に至る。途中には2~3段の腰曲輪がある。三ノ郭は楔形をした平坦な曲輪で、後部の細尾根の鞍部には堀切が穿たれている。その上に二ノ郭がある。二ノ郭は先端に土塁が築かれ、後部が1段低くなり、主郭との間には堀切が穿たれている。その上が城内最高所で主郭が築かれている。主郭は西側が1段高く櫓台のようになっている。主郭東辺には石積みがわずかに残っている。主郭の南尾根には段曲輪が3段あり、上段の段曲輪の側方に虎口が開かれ、下の段曲輪に通じている。中段の段曲輪の西辺には石積みのある土塁が築かれている。また主郭の西尾根には、堀切が穿たれ、その先の細尾根脇に竪堀2本が穿たれ、その先に小堀切、更に先の尾根に一番規模の大きな堀切が穿たれて、城域が終わっている。基本は連郭式の縄張りであるが、途中の繋ぎの尾根が細いため、二ノ郭・三ノ郭・物見曲輪は離れて配置されている。曲輪はいずれも小さく、居住性はほとんどなかったと思われ、有事の際の詰城であったものだろう。
二ノ郭後部の堀切→DSCN7014.JPG
DSCN7068.JPG←城域最西端の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.420618/137.937512/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世平山城
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