SSブログ

薄衣城(岩手県一関市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN0157.JPG←二ノ郭から見た主郭
 薄衣城は、葛丸城とも言い、奥州千葉氏の一流薄衣氏(薄衣千葉氏)の居城である。薄衣氏は『薄衣状』でもよく知られる。薄衣氏は奥州千葉氏の一流で、越前国大野郡鳥田城を居城としていた千葉四郎胤堅が、1252年8月に奥州の押えとして陸奥国栗原郡に下向し、磐井郡薄衣庄に居住して翌53年に薄衣城を築いて居城とし、薄衣氏の祖となったと言われる。薄衣氏からは、門崎城主門崎氏・朝日館主金沢氏・松川城主松川氏を分出した。南北朝時代の1339年、南朝方についた薄衣清村は北朝方の葛西高清と戦って敗れ、葛西氏に臣従する事となった。1498年、葛西領に隣接する大崎氏において重臣氏家三河父子が反乱を起こし、大崎氏家中の内紛が勃発した。葛西領の薄衣美濃入道清胤と江刺三河守は、大崎義兼からの内乱鎮圧のための出兵要請を再三受け、ついに断わりきれず出陣した。この清胤は、葛西氏9代満信の子・和泉守重信の子で、薄衣清房の長女と結婚して薄衣氏を継いでいたが、清房の末子常盛は清胤の入嗣を不服とし、両者の関係は険悪なものとなっていた。清胤が大崎氏支援のために出兵すると、常盛は長谷城に籠城して大崎氏救援反対の気勢をあげた。清胤は急遽薄衣城に引き返したが、更に主君葛西政信も大崎救援反対の軍を出し、薄衣城は葛西氏の大軍に包囲された。進退窮まった清胤は自刃しようとしたが、米谷左馬助に制止され、清胤は伊達成宗に救援を求める書状を送った。これが『薄衣状』である。この戦乱は、伊達氏の仲介によって収束したらしい。1507年、薄衣一族の朝日館主金沢冬胤が、峠城主寺崎時胤と合戦し、金沢方が勝利した。その3年後の1510年、薄衣清貞は、弟松川信胤とその子胤光らの加勢を得て金沢冬胤の拠る金沢郷を攻撃した。しかし戦いは金沢方の勝利に帰し、薄衣方の松川胤光が戦死した。この敗戦後、薄衣氏の勢力は頽勢に傾いた。しかし1580年には、薄衣甲斐守が葛西太守に代わって上洛するなど、葛西氏の重臣であったことがうかがわれる。しかし1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で葛西氏が改易となると、薄衣氏も没落。同年に生起した葛西大崎一揆では、薄衣甲斐守胤勝(胤次?常雄?)が栗原郡高清水森原山に出陣した軍勢の大将となったが、伊達勢に敗れ、桃生郡深谷で謀殺されたと伝えられる。

 薄衣城は、北上川東岸にそびえる比高60m程の山上に築かれている。市の史跡に指定されており、北麓から登道が整備されている。山頂に広い主郭を置き、その北から西側半周に腰曲輪を築き、更に西側にL字型をした二ノ郭を張り出させている。主郭・二ノ郭共に内部は大きく傾斜しており、二ノ郭の中央北寄りには大きな土壇が築かれている。この土壇は櫓台ほどの広さがないので、おそらく信仰上の施設が置かれていたのだろう。同様の土壇は黄海城などにもあり、葛西氏領国の城では時折見られるものである。二ノ郭の北尾根に段曲輪群、南斜面に腰曲輪群が築かれているが、草が覆い茂っていたので踏査はしていない。主郭北側の最上段の腰曲輪には、東端に土塁が築かれている。この腰曲輪と二ノ郭との間の谷戸には、前述の登道が通っており、道の東側に腰曲輪が2段築かれている。主郭の南東には、堀切状の通路を挟んで三ノ郭が、その東には四ノ郭が築かれているが、いずれも草が覆い茂っていて遠目に見ただけである。縄張り的には少々面白みに欠け、また比高の数字ほどの高さを感じさせない、川沿いの比較的低い山に築かれた城である。
主郭から見た二ノ郭→DSCN0167.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.891292/141.267743/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/10/25
  • メディア: 単行本


nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 4

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント